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千里眼-刀
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「業物位列」は、須藤五太夫睦済(すどうごだゆうむつずみ)と山田朝右衛門吉睦(よしむつ)が行った試し斬りを拠り所に、柘植方理平助が刀の斬れ味の良否を位付けした切れ味の評定位列。
評定として「最上大業物:さいじょうおおわざもの」「大業物:おおわざもの」「良業物:よきわざもの」「業物:わざもの」の四つの位列がある。

大業物

Copy right Ginza Choshuya
Production work Tomoriki Imazu

日本刀販売専門店 銀座長州屋

​価額未表記は売約済または価額応相談のものです
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銘 近江大掾藤原忠広

Tadahiro

銘 近江大掾藤原忠広

大業物

近江大掾忠広は江戸時代前期の肥前を代表する名工で忠吉初代の嫡子。慶長十九年(1614)に生まれ、寛永九年(1632)父の死により十九歳で家督を継ぐ。寛永十八年(1641)近江大掾を受領。家伝の直刃のほか、独特の肥前足長丁子を創始。元禄六年(1693)没。享年八十。
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銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

大業物

 近江大掾忠広は初代肥前国忠吉の塁を摩す活躍を見せた肥前刀黎明期の巨匠。微塵に詰み澄んだ地鉄に虻の目に似た連れた互の目を入れた得意の作風。匂口の光が強く、刃境には金線砂流しが無数に掛かっている。
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銘 肥前国住藤原忠広(最上大業物)

Tadahiro

銘 肥前国住藤原忠広(最上大業物)

大業物

 五字忠(ごじただ)と尊称され遍く知られる初代忠吉は、慶長元年に鍋島家の命で京の埋忠明壽に入門し、作刀技術を学ぶとともに古名作への見識を高め、後の山城伝、相州伝、大和伝の研究の礎とした。特筆すべきは、鍋島家が他国の要人等へ贈る刀を製作する際、特別な製作指示を受けていること。その場合、武蔵大掾の任官銘を刻すを憚り、「肥前國住藤原忠廣」とのみ切り施している。
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銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

大業物

 江戸時代前期。肥前国。近江大掾忠広は江戸時代前期を代表して遍く知られる肥前国の名匠。初代忠吉亡き後、鎖国政策による影響で日本刀の海外販路が閉ざされる苦境にあって、一門をよく統率して肥前刀発展の礎を築いた手腕は特筆に値する。刀身彫刻は吉長のものではないが、鑚冴えた倶利伽羅を刻した迫力の一振である。
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小刀 銘 近江大掾藤原忠広

Tadahiro

小刀 銘 近江大掾藤原忠広

大業物

 近江大掾忠広は肥前国鍋島家に仕えた忠吉家の二代目。寛永十八年には近江大掾を受領。その作品は、姿、地鉄、焼刃総てが美しいだけでなく大業物に列せられているように斬れ味にも優れており、父の作と共に鍋島家から他国大名家への贈刀とされたほどに高い信頼を受けていた。
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銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

大業物

 刀剣界において語られる受領銘の「近江大掾」は、忠吉家二代目近江大掾忠広その人を指し示している。この揺るがぬ知名度は、大業物に指定されるほどの切れ味を備えていることはもちろん、小糠肌とも呼ばれる均質に詰み澄んだ小板目肌鍛えに微細な地沸が湧き上がった美しい肥前肌、そして最も整っていると高い評価を受けている洗練された姿形を完成させたことによる。
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銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

大業物

 肥前刀の発展は初代忠吉による鎌倉時代の山城物の再現という大きな目標と、それに突き進んだ研究の結果によるが、師の技術を受け継いでさらに進化させた二代目忠広の力量も忘れることができない。加え、忠吉家が仕えていた佐賀藩主鍋島家による刀工への厚い庇護が効果的に働いたものと思われる。殊に、同藩から他国の大名家などへ、忠吉、忠広の刀が贈り物とされたほどに截断能力の高さと美しさが高く評価されている。
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銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

大業物

 「肥前国住藤原忠広」「近江大掾藤原忠広」。近江大掾忠広は初代忠吉の嫡子で慶長十九年(1614)生れ。寛永九年(1632)に家督を相続し、同十八年(1641)に近江大掾を受領。以降元禄年間(1688-1703)に至るまで主家鍋島氏の注文に応えて姿の美しい数々の名刀を鍛えている。
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銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

大業物

 忠広は初代忠吉の子。幼い頃から忠吉家の名跡を継ぐべく鍛冶修業に励み、寛永十八年に近江大掾を受領。自ら忠広の工銘を用いて我が子に忠吉銘を継がせたものの、三代目は五十歳の若さで没したため、以降も一門を率いて四代目を教育、元禄年間まで作刀に励んだ。
ローテーション鐔

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