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千里眼-刀
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「業物位列」は、須藤五太夫睦済(すどうごだゆうむつずみ)と山田朝右衛門吉睦(よしむつ)が行った試し斬りを拠り所に、柘植方理平助が刀の斬れ味の良否を位付けした切れ味の評定位列。
評定として「最上大業物:さいじょうおおわざもの」「大業物:おおわざもの」「良業物:よきわざもの」「業物:わざもの」の四つの位列がある。

良業物

Copy right Ginza Choshuya
Production work Tomoriki Imazu

日本刀販売専門店 銀座長州屋

​価額未表記は売約済または価額応相談のものです
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Loding...

154

銘 兼元(大業物)

Kanemoto

大業物

銘 兼元(大業物)
 兼元は戦国期美濃の名流。最上大業物に位列されている孫六兼元を筆頭に、抜群の切れ味と優れた操作性を誇った戦国期最大のブランド。
 本作は孫六に最も近しい門人の作であろう、鷹ノ羽鑢に仕立てられた茎に堂々と刻された銘字は孫六然としている。
452

銘 加陽金府住炭宮兼則

Kanenori (Kaga province)

大業物

銘 加陽金府住炭宮兼則
 加賀友禅や漆器など芸術・文化が花開いた加賀国は、一方で武士たちの刀の切れ味への要求は強かった。切断銘入の作も少なくなく、美濃国から加賀へ移住した兼則も刃味優れた作を手掛け、大業物に列せられている。
1200

銘 備州長船勝光 明応十年八月日 (大業物)

Katsumitsu

大業物

銘 備州長船勝光 明応十年八月日 (大業物)
 備前長船における勝光同銘は、室町時代初期の応永より末期の天正までみられるが、最も作品が多く、また広く知られているのが右京亮勝光と次郎左衛門尉勝光の親子であろう。殊に、文明頃から明応にかけて活躍した右京亮勝光は、赤松政則の被官として文明十五年四十九歳の時に吉井川を挟んで山名勢と戦い、その後も遥か京、近江まで転戦。本作は歴戦の中で用と美の真髄を咀嚼した勝光のみが成した別天の境域と言える。
859

銘 備州長船勝光 文明十八年二月日(大業物)

Katsumitsu

大業物

銘 備州長船勝光 文明十八年二月日(大業物)
 右京亮勝光は弟左京進宗光と共に、戦国武将赤松政則に仕えた名工。
この刀は、草壁打(重美に指定されている文明十八年十二月十三日紀の宗光との合作の草壁打の刀)と同じ文明十八年紀の一口。元来の茎の重ねが極厚であることから、太刀に差し副え、素早く抜き放って用いられたものであろう、茎が短く片手での操作に適していることが注目される。
752

銘 日州古屋之住国広作 天正六年八月彼岸

Kunihiro

大業物

銘 日州古屋之住国広作 天正六年八月彼岸
 和泉守国貞や河内守国助等の師で、新刀の祖と謳われる堀川国広は、戦国武将伊東氏の領国日向国阿屋郷古屋に鞴を構えていた修験鍛冶の家の生まれ。天正五年に主家伊東氏が薩摩島津氏に敗れて国を追われた際、国広は主義祐に従い、宗麟の豊後臼杵城へ避難している。その後主家を辞し、山陽道、京、美濃岐阜を経、下野国足利に暫く滞在している。天正十九年に上京してやがて一条堀川に鍛冶場を構えた。
493

銘 国広

Kunihiro

大業物

銘 国広
 国広は生国日向にて飫肥伊東家の家臣。天正五年の伊東家没落後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、時には山伏生活を余儀なくされたことが天正十二年二月紀の太刀によって知られ、その足跡は天正十八年の野州足利、さらに相州小田原、濃州岐阜、そして再び石田三成に従っての日向検地等、慶長四年の京都定住までは確たる住処を持たない流浪の鍛冶であった。
766

銘 和泉守藤原国貞 切付銘 二ツ胴落(大業物)

Kunisada

大業物

銘 和泉守藤原国貞 切付銘 二ツ胴落(大業物)
子の真改国貞に対して親国貞と呼び慣わされる初代国貞は、伝を頼って同郷の刀工堀川国広の門を叩くべく京に上り、同門の高足越後守国儔に師事した。慶長十九年の国広没後ほどなくして独立。元和七年以前には大坂に移り、同九年九月十五日、三十四歳で和泉守を受領。
623

銘 和泉守藤原国貞(大業物)

Kunisada

大業物

銘 和泉守藤原国貞(大業物)
 和泉守国貞は天正十八年に日向国飫肥に生まれた。上京して同郷の堀川国広門を叩き、名手越後守国儔の指導で技を修め、師の没後は兄弟弟子として切磋琢磨した国助初代と共に、幕府によって整備されつつあった新都大坂へ進出。飫肥藩主伊東侯に仕え、元和九年に和泉守を受領している。大坂新刀隆盛の礎を築いた一人である。
885

銘 和泉守藤原国貞(大業物)

Kunisada

大業物

銘 和泉守藤原国貞(大業物)
 和泉守国貞は天正十八年日向国飫肥の生まれ。京に鍛冶場を構えていた同郷の先達堀川国広に入門し、一門の名手越後守国儔の指導で鍛刀技術を会得。国広の没後は大坂へ出て元和九年に和泉守を受領している。この脇差は寛永初期、国貞四十代の作。師国儔譲りの冠落造で、腰元の棒樋と添樋、護摩箸が映えた好姿。
1196

金粉銘 延寿国時 光遜(花押) (大業物)

Kunitoki

大業物

金粉銘 延寿国時 光遜(花押) (大業物)
 鎌倉末期から南北朝時代にかけて肥後国に栄えた延寿国時と極められ、本阿弥光遜師によって金粉銘が施されている。延寿派は、鎌倉後期に肥後菊池に移住した山城来派の国村に始まり、菊池氏の庇護を得、国資、国吉、国泰など技量の高い多くの鍛冶によって騒乱の時代の需要に応えている。中でも延寿派を代表する上工として知られたのが、国村の子とも弟子とも伝える国時であった。
1069

銘 国安(大業物)

Kuniyasu

大業物

銘 国安(大業物)
 国安は堀川国広の末弟で、志津を想わせる大鋒の刀(重要文化財)、梵字彫のある片切刃造の刀等重美三振等の名品を遺しているように国広に匹敵する実力者であったが、なぜか受領せず遺作も少ない。専ら国広の作刀に協力していた為と推考される。
23

備州長船盛光 応永二十七年八月日

Morimitsu

大業物

備州長船盛光 応永二十七年八月日
 「盛光」「備州長船盛光」「修理亮盛光」応永備前の代表工。倫光の子である師光の子またはその弟子と伝わる。明徳五年(A.D.1394)に小反風の太刀があるが、応永年間(A.D.1394-A.D.1428)に入ると、小反風は消え洗練味のある作風に転じる。応永杢と呼ばれる杢目交じりの板目肌に防映りが立つ。棒樋は丸止めとなるものが多い。
185

大磨上無銘 了戒(大業物)

Ryokai

大業物

大磨上無銘 了戒(大業物)
 鎌倉時代後期。山城国。「了戒」「了戒作」。来国俊の門人。僧門鍛冶という。鎌倉時代後期の照応年間(A.D.1288~A.D.1293)から延享年間(A.D.1308~A.D.1293)に亘り作刀。柾目を交え、地沸が豊かについて白く輝く独特の地鉄を特徴とする。
971

銘 了戒(大業物)

Ryokai

大業物

銘 了戒(大業物)
 山城国了戒には弘安役後の正応から永仁、正安、嘉元、延慶、応長の約二十年間に亙る年紀作が遺されている。その作風は、同世代の来国俊に似て典雅な京反りの体配に小沸出来の直刃、あるいは直小乱刃を焼いて格調の高いものが多く、僧門鍛冶を想わせる特異な匠銘とその語感に神秘性が漂い、古雅な生ぶの姿は同時代他工の作に比して一段と古調に感じられ、奥深い味わいのあるものが多い。
1093

銘 越前守源助広(大業物)

Sukehiro

大業物

銘 越前守源助広(大業物)
 井上真改と共に新刀期大坂の横綱に位置付けられる助広は、寛永十四年の生まれで初代助広に学び、後に養子に迎えられている。天から授かった豊かな感性に加えて、刀の新時代を目指す探求心は広く深く、新趣の相州伝大互の目の刃文の創案だけでなく、本作があることによって古作を再現する感性と高い技術がその下地として存在していたことを示している。
870

銘 越前守藤原助広(大業物)

Sukehiro

大業物

銘 越前守藤原助広(大業物)
 津田越前守助広は大海の大波を想わせる「濤瀾乱刃」を完成させ、同時代の刀工は勿論、江戸後期、更には現代刀工にも影響を与えた刀界の巨星。十代後半の承応頃には父の代作代銘に当り、万治元年に独立して越前守となる。精美な地鉄と沸匂深い刃の冴えは圧巻で、元禄九年の『難波丸』の刀工値付では、同時代の大坂刀工とは別次元ともいうべき「刀十枚脇七枚」の高評価であった。
827

銘 越前守助広 雙(大業物)

Sukehiro

大業物

銘 越前守助広 雙(大業物)
 雙の文字を刻した津田越前守助広の濤瀾乱風大互の目乱出来の一刀。初代没後三年間に限って刻した雙の文字と銘振りから、寛文六年三十歳頃の作と鑑せられ、後に完成させた濤瀾乱の刃文の先駆けをなす絢爛華美なる焼き入れ。
1175

銘 越前守助広 寛文七年二月日 (大業物)

Sukehiro

大業物

銘 越前守助広 寛文七年二月日 (大業物)
 越前守助広は寛永十四年摂津打出村の生まれ。幼い頃から鍛冶修業を積み、早くも十七歳にして師初代助広の代作に携わっている。師の引退後は二代目を襲銘し、万治元年に越前守を受領、寛文七年に大坂城代を勤めた青山因幡守に抱えられ、以降、同じ大坂の井上真改と切磋琢磨して神域に到達。独創的な濤瀾乱刃で知られるも、刃文の美観に強く影響を及ぼす美しく整った地鉄鍛えを以て大坂新刀の横綱と尊称されている。
932

銘 備前国住長船祐定 永正四年八月吉日(大業物)

Sukesada

大業物

銘 備前国住長船祐定 永正四年八月吉日(大業物)
 戦国時代最大の勢力を誇った祐定家の台頭は、世に「永正祐定」と呼ばれて名高い彦兵衛尉祐定の技術力が根底にあった。次第に高まる需要に応えて高級武将の信頼厚く、斬れ味鋭く大業物に評価されている。片手で抜き打つに適した適度な寸法と身幅に仕上げ、肉を厚く仕立てる一方で樋を掻いて重量を調整しており、拵に装着して頗る安定感がある。
134

肥前国近江大掾藤(以下切藤原忠広)

Tadahiro

大業物

肥前国近江大掾藤(以下切藤原忠広)
 江戸時代前期。肥前国。「肥前国住藤原忠広」「近江大掾藤原忠広」。忠広二代。新左衛門尉。忠吉初代の嫡子。慶長十九年(1614)生まれ。寛永九年(1632)父が没し、十九歳で家督を継ぐ。寛永十八年(1641)近江大掾を受領。家伝の直刃の他、独特の肥前足長丁子を創始。亡くなる直前まで槌を振るい、数多くの優品を遺す。肥前刀の礎を盤石にした功労者。元禄六年(1693)没。享年八十。
348

大刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

大刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広
 近江大掾忠広は肥前国鍋島家に仕えた忠吉家の二代目で、慶長十九年の生まれ。父の初代忠吉が晩年に武蔵大掾を受領して用いた忠広銘を寛永九年に襲い、一門が目指していた古作山城物の再現に取り組んで綺麗な小板目鍛えを生み出し、江戸期における作刀文化の中心の一つとなった。
1048

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広 寛文九年八月吉日

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広 寛文九年八月吉日
 近江大掾忠広は、武蔵大掾忠広の嫡子。寛永九年に亡父の跡を継いで忠広を襲名し、鍋島勝茂公より佐賀城下に賜った長瀬町に屋敷を構え、河内大掾正広をはじめとする腕達者の工にも恵まれて繁栄し、寛永十八年七月二十二日に近江大掾を受領している。
237

近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

近江大掾藤原忠広
 近江大掾忠廣は、寛永から元禄までの六十数年に亘って名刀の数々を手掛けた肥前忠吉家二代目。大業物に位列される鮮やかな刃味と美しい地刃で、肥前刀の礎を不動にした最大の功労者。早世した三代陸奥守忠吉もまた、忠廣が名作を生み出すための手足となっている。
518

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 近江大掾忠広は慶長十九年の生まれで、初代忠吉が四十二歳の時の子。十歳頃から作刀に従事したのであろう、初代が没した寛永九年は十九歳、以降一門を率いて、子の三代忠吉、孫の四代忠吉を育て、元禄六年に八十歳で没するまで、作刀に対する厳しい姿勢は衰えることがなかった。寛文頃には次代を担う子に希望の光を見出していたとみえ、寛永十四年に生まれ二十代中ほどに成長していた三代忠吉との合作刀も多く遺している。
713

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広 正保二年八月吉日

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広 正保二年八月吉日
 近江大掾忠広は佐賀藩主鍋島家のお抱え刀工忠吉初代の嫡子。父の指導で十代後半には秘伝を修めており、十九歳で父を喪った寛永九年以降も親族の正広、行広らと切磋琢磨し技術を錬磨。忠吉一門の棟梁として大成し、寛永十八年七月二十二日に近江大掾を受領。この刀は、受領直前の貞享元年三十五歳頃の作。茎の剣先が鋭いのは正保から慶安頃の特徴で、銘字が一画一画入念に刻され、正保二年紀も貴重。
53

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広
 肥前国。江戸時代前期。近江大掾忠広は初代忠吉の子で、その晩年銘「忠広」を襲い、三代目陸奥守忠吉と孫の四代近江大掾忠吉、また多くの門人を育て、肥前刀の実力を世に知らしめ、のちの刀工に多大な影響を与えた名人。
396

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広
 近江大掾忠広は肥前国佐賀藩鍋島侯のお抱え刀工で、新刀随一と謳われる肥前国忠吉を父とする。寛永九年に父を喪った時、十九歳ながら一門の棟梁の重責を担い、主君の厳しい注文に応えて鍛刀し、父譲りの技術に一段と磨きをかけ、小糠肌と呼ばれるきめ細やかな小板目肌に端正な直刃や華麗な丁子乱刃が冴えた名刀を手掛け、肥前刀の名声を盤石なものとしている。
469

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)
 直刃の名手として遍く知られる近江大掾忠広は江戸期の肥前を代表する名流忠吉家の二代目。初代忠吉が追い求めた山城古作の再現を受け継ぎ、肥前刀の特質でもある地沸が微塵に付く美しい小糠肌を完成させた。美しさだけでなく斬れ味も大業物に列せられるほどに優れ、わが子三代目陸奥守忠吉などの門人を育て、肥前刀剣王国を世に知らしめた名匠である。
909

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 肥前鍋島家の鍛冶、忠吉家の二代目近江大掾忠広が、我が子三代忠吉の協力を得て鍛え上げた覇気横溢の脇差。慶長十九年に生まれた忠広は、父の名跡を継いで以降元禄六年に八十歳で鎚を擱くまで、六十年以上の長きに亘って作刀活動を続け、肥前刀の特質でもある微塵に詰んだ小板目鍛えに細かな地沸が付いた小糠肌を基調とする、多くの名品を遺している。
1066

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 近江大掾忠広は初代忠吉の子で慶長十九年の生まれ。鍋島家に仕えて父と共に、時代に応じた精緻な地鉄とバランスの良い姿格好を研究、美しくしかも切れ味優れた数々の名刀を生み出した、江戸時代初期の肥前国だけでなく新刀期を代表する名工。
147

刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広
 近江大掾忠廣は名門肥前国忠吉の二代目。寛永九年十九歳で家督を継承し、嫡子陸奥守忠吉ら門弟を指導し、元禄六年八十歳で没する直前まで鍛冶場に向かい、品格ある姿に地刃の冴えた作を手掛け、肥前刀の名を高からしめた優工として古来声望が高い。
375

銘 近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広
近江大掾忠広は江戸時代前期の肥前を代表する名工で忠吉初代の嫡子。慶長十九年(1614)に生まれ、寛永九年(1632)父の死により十九歳で家督を継ぐ。寛永十八年(1641)近江大掾を受領。家伝の直刃のほか、独特の肥前足長丁子を創始。元禄六年(1693)没。享年八十。
181

近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

近江大掾藤原忠広(大業物)
 近江大掾忠広は初代肥前国忠吉の塁を摩す活躍を見せた肥前刀黎明期の巨匠。微塵に詰み澄んだ地鉄に虻の目に似た連れた互の目を入れた得意の作風。匂口の光が強く、刃境には金線砂流しが無数に掛かっている。
672

銘 肥前国住藤原忠広(最上大業物)

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住藤原忠広(最上大業物)
 五字忠(ごじただ)と尊称され遍く知られる初代忠吉は、慶長元年に鍋島家の命で京の埋忠明壽に入門し、作刀技術を学ぶとともに古名作への見識を高め、後の山城伝、相州伝、大和伝の研究の礎とした。特筆すべきは、鍋島家が他国の要人等へ贈る刀を製作する際、特別な製作指示を受けていること。その場合、武蔵大掾の任官銘を刻すを憚り、「肥前國住藤原忠廣」とのみ切り施している。
295

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 江戸時代前期。肥前国。近江大掾忠広は江戸時代前期を代表して遍く知られる肥前国の名匠。初代忠吉亡き後、鎖国政策による影響で日本刀の海外販路が閉ざされる苦境にあって、一門をよく統率して肥前刀発展の礎を築いた手腕は特筆に値する。刀身彫刻は吉長のものではないが、鑚冴えた倶利伽羅を刻した迫力の一振である。
347

小刀 銘 近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

小刀 銘 近江大掾藤原忠広
 近江大掾忠広は肥前国鍋島家に仕えた忠吉家の二代目。寛永十八年には近江大掾を受領。その作品は、姿、地鉄、焼刃総てが美しいだけでなく大業物に列せられているように斬れ味にも優れており、父の作と共に鍋島家から他国大名家への贈刀とされたほどに高い信頼を受けていた。
589

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 刀剣界において語られる受領銘の「近江大掾」は、忠吉家二代目近江大掾忠広その人を指し示している。この揺るがぬ知名度は、大業物に指定されるほどの切れ味を備えていることはもちろん、小糠肌とも呼ばれる均質に詰み澄んだ小板目肌鍛えに微細な地沸が湧き上がった美しい肥前肌、そして最も整っていると高い評価を受けている洗練された姿形を完成させたことによる。
421

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)
 肥前刀の発展は初代忠吉による鎌倉時代の山城物の再現という大きな目標と、それに突き進んだ研究の結果によるが、師の技術を受け継いでさらに進化させた二代目忠広の力量も忘れることができない。加え、忠吉家が仕えていた佐賀藩主鍋島家による刀工への厚い庇護が効果的に働いたものと思われる。殊に、同藩から他国の大名家などへ、忠吉、忠広の刀が贈り物とされたほどに截断能力の高さと美しさが高く評価されている。
1

近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

近江大掾藤原忠広
 「肥前国住藤原忠広」「近江大掾藤原忠広」。近江大掾忠広は初代忠吉の嫡子で慶長十九年(1614)生れ。寛永九年(1632)に家督を相続し、同十八年(1641)に近江大掾を受領。以降元禄年間(1688-1703)に至るまで主家鍋島氏の注文に応えて姿の美しい数々の名刀を鍛えている。
798

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 忠広は初代忠吉の子。幼い頃から忠吉家の名跡を継ぐべく鍛冶修業に励み、寛永十八年に近江大掾を受領。自ら忠広の工銘を用いて我が子に忠吉銘を継がせたものの、三代目は五十歳の若さで没したため、以降も一門を率いて四代目を教育、元禄年間まで作刀に励んだ。
1106

近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

近江大掾藤原忠広(大業物)
近江大掾忠広は、寛永九年十九歳で父初代忠吉の後を継ぎ、元禄六年に八十歳で没する直前まで槌を振るって優品の数々を遺し、その作刀期間の長さは他に例をみないほど。その間に、子の陸奥守忠吉や孫の近江大掾忠吉ら優れた門弟を指導し、肥前刀の不動の礎を築き上げた功労者でもある。忠広が求めた肥前刀の本質とは、古作山城来派にみられる小板目鍛えと微細な地沸の複合になる鋼の美の極致。
253

脇差 銘 肥前国住藤原忠広

Tadahiro

大業物

脇差 銘 肥前国住藤原忠広
 銘の特徴から寛永十年前後に鍛造されたと推定される肥前近江大掾忠広の初期作。地景が顕著に表れた冴えた地鉄は忠広初期作に多く見る特徴の一つである。
269

近江大掾藤原忠広 真鍛

Tadahiro

大業物

近江大掾藤原忠広 真鍛
 江戸時代前期。肥前国「肥前国住藤原忠広」。寛永九年、齢十九にして肥前刀剣王国の二代を継ぐ。切れ味鋭い大業物として名高い。寛永十八年に近江大掾を受領。元禄六年没。真鍛の添銘ある作はいずれも出来口優れ、世の賞玩極めて高い。
1150

菖蒲造脇差 銘 忠広(近江大掾) (大業物)

Tadahiro

大業物

菖蒲造脇差 銘 忠広(近江大掾) (大業物)
  寛永十年に亡父武蔵大掾広の跡を継いだ近江大掾忠広が、その翌年に弱冠二十歳で鍛えた作。忠広は早熟の天才で、近江大掾受領以前の初期作にも、覇気に満ちた優品が多い。
1217

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro (Omi daijo)

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)
 近江大掾忠広は五字忠吉こと肥前国忠吉初代(武蔵大掾忠広)の子。寛永九年に十九才で家督を継ぎ、佐賀藩主鍋島侯に仕えた。近江大掾の受領は寛永十八年七月二十二日。受領の前、そして受領した後間もない若い頃には、忠吉家の次代を担うべく想いを込めたものであろう、豊かな感性に努力が積み重ねられて溌剌とした作が多い。
608

銘 肥前国忠広(二代:大業物)

Tadahiro(the 2nd)

大業物

銘 肥前国忠広(二代:大業物)
 肥前国忠吉の嫡子忠広は並みならぬ感性に加え、忠吉家の未来を背負う立場として幼い頃から修業を積んで技量優れ、早くから高い評価を得ていた。父の晩年は代作代銘を勤め、その没後は家督を継いで十九歳で棟梁となり、寛永十八年に近江大掾を受領している。肥前刀を幕閣や親しい大名への贈品とした藩主鍋島侯の需に応えて鎚を振るい、優品の数々を打った。
722

折返銘 高天神(兼明)

Takatenjin (Kaneaki)

大業物

折返銘 高天神(兼明)
 高天神兼明は本国美濃で高天神城下に居住した刀工。激烈な戦いと武将の生死を目の当たりにして鍛刀した故か、遺作には戦国気質が充満し、しかも現存作は稀で、愛刀家の声望が殊に高い。
 本作も磨り上げたものの「高天神」の銘字が失われるのを惜しんで折返銘とされており、今なお身幅重ね充分で殆ど無反り、腰樋が掻かれて刺突と截断と両方に利のある戦国武将好みの一振。
378

銘 高天神 金粉銘 兼明

Takatenjin(Kinpun mei Kaneaki)

大業物

銘 高天神 金粉銘 兼明
 高天神城は戦国武将今川氏親が重臣松井宗能に築かせた遠江国南端の山城。「高天神を制する者は遠江を制する」と云われた戦略の要衝で、桶狭間で義元が没した後、城を巡り徳川と武田による激しい争奪戦が展開されたことで良く知られている。この城下に来住した高天神兼明は刃味と操作性に優れて武将の信頼厚く、古来人気が高く、それが故に激戦のうちに消費され、今日遺作を見る事は極めて尠ない。
1197

銘 大和守安定 金象嵌截断銘 寛文元年閏八月八日大袈裟片手打截断 山野加右衛門六十四歳切之永久(花押)(大業物)

Yasusada

大業物

銘 大和守安定 金象嵌截断銘 寛文元年閏八月八日大袈裟片手打截断 山野加右衛門六十四歳切之永久(花押)(大業物)
 元和四年紀伊国の産の大和守安定は、紀州石堂派の技術を修め、正保二年二月四日に大和大掾を受領した。その後、慶安元年頃に江戸へ出、長曽祢虎徹の師と伝える和泉守兼重に就いて刃味が抜群に優れた沸出来の互の目乱刃を完成した。因みに虎徹は少し後輩に当たり、安定から強い影響を受けたと云われる。
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