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千里眼-刀
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「業物位列」は、須藤五太夫睦済(すどうごだゆうむつずみ)と山田朝右衛門吉睦(よしむつ)が行った試し斬りを拠り所に、柘植方理平助が刀の斬れ味の良否を位付けした切れ味の評定位列。
評定として「最上大業物:さいじょうおおわざもの」「大業物:おおわざもの」「良業物:よきわざもの」「業物:わざもの」の四つの位列がある。

大業物

Copy right Ginza Choshuya
Production work Tomoriki Imazu

日本刀販売専門店 銀座長州屋

​価額未表記は売約済または価額応相談のものです
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銘 兼元(大業物)

Kanemoto

銘 兼元(大業物)

大業物

 兼元は戦国期美濃の名流。最上大業物に位列されている孫六兼元を筆頭に、抜群の切れ味と優れた操作性を誇った戦国期最大のブランド。
 本作は孫六に最も近しい門人の作であろう、鷹ノ羽鑢に仕立てられた茎に堂々と刻された銘字は孫六然としている。
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銘 加陽金府住炭宮兼則

Kanenori (Kaga province)

銘 加陽金府住炭宮兼則

大業物

 加賀友禅や漆器など芸術・文化が花開いた加賀国は、一方で武士たちの刀の切れ味への要求は強かった。切断銘入の作も少なくなく、美濃国から加賀へ移住した兼則も刃味優れた作を手掛け、大業物に列せられている。
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銘 備州長船勝光 明応十年八月日(大業物)

Katsumitsu

銘 備州長船勝光 明応十年八月日(大業物)

大業物

文明頃から明応にかけて活躍した右京亮勝光は、備前、播磨、美作を領した赤松政則の被官として歴史の舞台に登場し、足利政義、義尚方に与する政則の下命を受け、文明十五年四十九歳の時に吉井川を挟んで山名勢と戦い、その後も各地を転戦を重ねながら鍛冶業を全うした。この脇差は、主の正則没後、長船に帰還しての作。
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銘 備州長船勝光 明応十年八月日(大業物)

Katsumitsu

銘 備州長船勝光 明応十年八月日(大業物)

大業物

 文明頃から明応にかけて活躍した右京亮勝光は、弟の左京進宗光の助力もあって、備前、播磨、美作を領した赤松政則の被官として歴史の舞台に登場し、足利政義、義尚方に与する政則の下命を受け、文明十五年四十九歳の時に吉井川を挟んで山名勢と戦い、その後、児島、備中草壁、京、近江を転戦しながらも長寿を保ち、鍛冶の業はその子次郎左衛門尉勝光に後事を託している。
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銘 備州長船勝光 文明十八年二月日(大業物)

Katsumitsu

銘 備州長船勝光 文明十八年二月日(大業物)

大業物

 右京亮勝光は弟左京進宗光と共に、戦国武将赤松政則に仕えた名工。
この刀は、草壁打(重美に指定されている文明十八年十二月十三日紀の宗光との合作の草壁打の刀)と同じ文明十八年紀の一口。元来の茎の重ねが極厚であることから、太刀に差し副え、素早く抜き放って用いられたものであろう、茎が短く片手での操作に適していることが注目される。
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銘 日州古屋之住国広作 天正六年八月彼岸

Kunihiro

銘 日州古屋之住国広作 天正六年八月彼岸

大業物

 和泉守国貞や河内守国助等の師で、新刀の祖と謳われる堀川国広は、戦国武将伊東氏の領国日向国阿屋郷古屋に鞴を構えていた修験鍛冶の家の生まれ。天正五年に主家伊東氏が薩摩島津氏に敗れて国を追われた際、国広は主義祐に従い、宗麟の豊後臼杵城へ避難している。その後主家を辞し、山陽道、京、美濃岐阜を経、下野国足利に暫く滞在している。天正十九年に上京してやがて一条堀川に鍛冶場を構えた。
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銘 国広

Kunihiro

銘 国広

大業物

 国広は生国日向にて飫肥伊東家の家臣。天正五年の伊東家没落後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、時には山伏生活を余儀なくされたことが天正十二年二月紀の太刀によって知られ、その足跡は天正十八年の野州足利、さらに相州小田原、濃州岐阜、そして再び石田三成に従っての日向検地等、慶長四年の京都定住までは確たる住処を持たない流浪の鍛冶であった。
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銘 和泉守国貞(道和銘)(大業物)

Kunisada

銘 和泉守国貞(道和銘)(大業物)

大業物

 和泉守国貞は天正十八年、日向国飫肥の生まれ。同国の先達堀川国広を頼って京に上り、その門下で作刀を学んだ。業成って後、合戦後の大坂が再開発され、職人や刀工の需要が増加したことから同門の初代国助と共に移り住み、武器としてのみならず新たな意識の下での作刀へと方向性を定め、斬れ味はもちろん、美観に優れた刀の製作に邁進した。
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銘 和泉守藤原国貞 切付銘 二ツ胴落(大業物)

Kunisada

銘 和泉守藤原国貞 切付銘 二ツ胴落(大業物)

大業物

子の真改国貞に対して親国貞と呼び慣わされる初代国貞は、伝を頼って同郷の刀工堀川国広の門を叩くべく京に上り、同門の高足越後守国儔に師事した。慶長十九年の国広没後ほどなくして独立。元和七年以前には大坂に移り、同九年九月十五日、三十四歳で和泉守を受領。
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