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千里眼-刀
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「業物位列」は、須藤五太夫睦済(すどうごだゆうむつずみ)と山田朝右衛門吉睦(よしむつ)が行った試し斬りを拠り所に、柘植方理平助が刀の斬れ味の良否を位付けした切れ味の評定位列。
評定として「最上大業物:さいじょうおおわざもの」「大業物:おおわざもの」「良業物:よきわざもの」「業物:わざもの」の四つの位列がある。

大業物

Copy right Ginza Choshuya
Production work Tomoriki Imazu

日本刀販売専門店 銀座長州屋

​価額未表記は売約済または価額応相談のものです
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銘 (一葉葵紋)主水正正清 享保九年二月(大業物)

Masakiyo

銘 (一葉葵紋)主水正正清 享保九年二月(大業物)

大業物

 主水正正清(もんどのかみまさきよ)の名を天下に轟かせたのは享保六年江戸御浜御殿での将軍御前打。将軍吉宗が、諸大名に領内の刀工の作を提出させて審査した結果傑作刀に選ばれ、江戸に上って吉宗の御前で精鍛したのである。その功績によって将軍より一葉葵紋を拝領し主水正を任官。更に享保九年には吉宗の命で刀を精鍛し、幕府に献上している。
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菖蒲造脇差 銘 備州長船盛光 応永十八年二月日(大業物)

Morimitsu

菖蒲造脇差 銘 備州長船盛光 応永十八年二月日(大業物)

大業物

室町初期応永頃の備前国を代表する長舩盛光は、長舩兼光の孫師光の子と伝えられている。現存最古とされる明徳五年三月日紀の太刀(第二十三回重要刀剣)は細身で小模様な刃を焼いた南北朝後期小反派の作風だが、その後盛光の刃文は焼の高い互の目丁子出来へと発展している。
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備州長船盛光 応永二十七年八月日

Morimitsu

備州長船盛光 応永二十七年八月日

大業物

 「盛光」「備州長船盛光」「修理亮盛光」応永備前の代表工。倫光の子である師光の子またはその弟子と伝わる。明徳五年(A.D.1394)に小反風の太刀があるが、応永年間(A.D.1394-A.D.1428)に入ると、小反風は消え洗練味のある作風に転じる。応永杢と呼ばれる杢目交じりの板目肌に防映りが立つ。棒樋は丸止めとなるものが多い。
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銘 備州長船盛光 応永二十年八月日(大業物)

Morimitsu

銘 備州長船盛光 応永二十年八月日(大業物)

大業物

 盛光は室町時代初期応永頃に活躍した備前長船派の名工。応永杢と呼ばれる独特の板目鍛えに棒映り、刃文は複式互の目とよばれる独特の作風は同時期の康光と並び称されて、応永備前の双璧と賞されている。
1410

銘 備州長船盛光 応永廿六年二月日(大業物)

Morimitsu

銘 備州長船盛光 応永廿六年二月日(大業物)

大業物

 盛光は室町時代初期、鹿苑寺金閣などに代表される北山文化華やかなりし頃に活躍した備前刀工。理想の武家政治再建の風に励まされ、鎌倉期の一文字や長舩長光などの名工を範に、清く澄んだ地鉄の直刃や乱刃の溌溂たる作を手掛け、今も「応永備前」と尊称され、愛刀家に珍重されている。
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大磨上無銘 了戒(大業物)

Ryokai

大磨上無銘 了戒(大業物)

大業物

 鎌倉時代後期。山城国。「了戒」「了戒作」。来国俊の門人。僧門鍛冶という。鎌倉時代後期の照応年間(A.D.1288~A.D.1293)から延享年間(A.D.1308~A.D.1293)に亘り作刀。柾目を交え、地沸が豊かについて白く輝く独特の地鉄を特徴とする。
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大磨上無銘 了戒 (大業物)

Ryokai

大磨上無銘 了戒 (大業物)

大業物

了戒は鎌倉後期の山城国京の優工。『古今銘盡』には 「二字國俊子。正和比」とあるように来國俊の子と伝え、作風も来國俊に極めて近似。 三条宗近、 長舩光忠 綾小路定利らと共に刃味優れた刀工として「注進物」に選出せられ(『同書』)、 鎌倉武士たちの信頼の 厚さを窺わせている。
971

銘 了戒(大業物)

Ryokai

銘 了戒(大業物)

大業物

 山城国了戒には弘安役後の正応から永仁、正安、嘉元、延慶、応長の約二十年間に亙る年紀作が遺されている。その作風は、同世代の来国俊に似て典雅な京反りの体配に小沸出来の直刃、あるいは直小乱刃を焼いて格調の高いものが多く、僧門鍛冶を想わせる特異な匠銘とその語感に神秘性が漂い、古雅な生ぶの姿は同時代他工の作に比して一段と古調に感じられ、奥深い味わいのあるものが多い。
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銘 津田越前守助広 延宝三年二月日(大業物)

Sukehiro

銘 津田越前守助広 延宝三年二月日(大業物)

大業物

 「越前守助広」「津田越前守助広」。二代助広は寛永十四年(1637)生れ。初代助広に鍛冶を学ぶ。万治元年(1658)に越前守を受領。粒の揃った沸出来の互の目乱れっを刃文の要とする構成美を追求。寛文三年の初代没後はさらに独創的な濤欄乱の創始へと突き進む。延宝二年より従来の楷書体銘を草書銘に改める。楷書体銘を角津田、草書銘は丸津田と称される。
ローテーション鐔

Loding...

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