top of page

優品紹介

日本刀専門店
銀座長州屋

​鷹匠道具図刀掛

江戸時代後期

幅49糎 高さ38.3糎 奥行18.5糎

桐箱付

 鷹狩は武家の愛好する狩猟と思われがちだが、鷹狩の歴史を紐解くと皇室(王権)との関係が非常に深く、律令国家成立以前のヤマト王権以来、施政者の庇護の下で連綿とその伝統が引き継がれてきたことは意外に知られていない。

 

鷹狩の淵源は、「日本書紀」仁徳四十三年九月朔上に記された以下の記述により、百済よりもたらされた狩猟法と考えられている。

 

「此の鳥の類、多に百済に在り。馴し得てば能く人に従う。亦捷く飛びて諸の鳥を掠る。百済の俗、此の鳥を号けて倶知と曰ふ」ともうす。〈是、今時の鷹なり〉・・・

 

仁徳天皇(紀元5世紀前半)は難波に都を定め、民の竈(かまど)から煮炊の煙が立ち上っていないことに気づいて三年に亘って租税を免除し、この間自らも節制に努めて、宮殿の屋根の茅葺さえ行わなかったという「民のかまど」の逸話で知られる偉大な大王(おおきみ)である。

 

注目すべきは、大王が民草の生活ぶりを小高い場所から見渡す行為が「国見儀礼」として儀式化され、この儀式が野行幸(天皇が鷹狩を行うために行う行幸)の際に実施されたという点である。

 

『新儀式』によれば、「国見儀礼」は鷹狩の際、小高く見晴らし良い場所を選んで四方を縦覧し、鷹狩で捕えた獲物を群臣に分け与えて、群臣と共にこれを食するという儀式である。

 

つまり、鷹狩(狩猟)は単なる遊戯ではなく、王権の山野河海への支配を象徴する行為で、大王が支配する土地より得られる獲物を臣下に分け与え、共にこれを食することで、自らの支配権を王卿以下の群臣に確認させるという重要な儀礼の舞台装置として利用されていたことになる。

 

かなり時代は下るが、鷹狩が施政者にとって重要な意味を持っていたことを示す確実な証拠がもう一つある。徳川家康が征夷代大将軍になった翌年のことである。慶長9年(1604)、家康は突然有力大名の鷹狩禁止令を発布し、慶長17年(1612)には公家による鷹狩をも禁止して鷹狩の独占化を図ったという史実である。

 

往古以来、鷹狩の持つ特別な意味を正確に認識し、権力基盤が盤石になったタイミングで鷹狩の独占を図った政治手腕は流石に慧眼で、いかにも家康らしい慎重にして大胆なやり方である。

 

これらの点を考慮すると、本作に描かれた鷹匠道具に菊紋が意匠されているのは何か特別の意味が込められているとしか考えられない。つまり、鷹狩を行い得るのは権力の中心にいる者のみであるという点を鑑みれば、本作に描かれた菊紋の存在が際立ってくる。王権の復活を寿ぐ意図がなければ決して製作され得ない主題であり、この点においても本作は非常に興味深い作品といえよう。

 

主題とされた鷹匠道具で特に目を引くのは瓢箪形をした奇妙な道具である。これは忍縄(おぐなわ、おきなわ)と呼ばれるもので忍縄筒と呼ばれる芯に紐を幾重にも巻いたもので、主に鷹匠が鷹を合わす(訓練)ときにこれを用いるという。
他には、


鞭状の策(ぶち 鞭)
鞭状の道具で鷹の羽の手入れや獲物を獲って汚れた鷹の口元を拭う道具。


大緒(おおお)
鷹を繋ぐ紐。

 

餌合子(えごうす)
鷹の餌を入れる容器。楕円形を半分に切ったような容器に入れて携行する。

水筒
上部に二か所穴を開け、水の出し入れに至便な造りとされている。

 

いずれも鷹匠が日常的に用いる道具で、切金で牡丹や菊紋、水筒の側面、忍縄、梅花に至るまで繊細な細工が施され、朱漆や金泥の華やかな色彩が格調高く調和した実に優雅な刀掛である。

 

参考文献 日本古代の王権と鷹狩 森田喜久男

bottom of page