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千里眼斬 日本刀 業物位列
千里眼-刀
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「業物位列」は、須藤五太夫睦済(すどうごだゆうむつずみ)と山田朝右衛門吉睦(よしむつ)が行った試し斬りを拠り所に、柘植方理平助が刀の斬れ味の良否を位付けした切れ味の評定位列。
評定として「最上大業物:さいじょうおおわざもの」「大業物:おおわざもの」「良業物:よきわざもの」「業物:わざもの」の四つの位列がある。

良業物

Copy right Ginza Choshuya
Production work Tomoriki Imazu

日本刀販売専門店 銀座長州屋

​価額未表記は売約済または価額応相談のものです
鍔が回る!

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1599

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 江戸時代前期。肥前国。近江大掾忠広は江戸時代前期を代表して遍く知られる肥前国の名匠。初代忠吉亡き後、鎖国政策による影響で日本刀の海外販路が閉ざされる苦境にあって、一門をよく統率して肥前刀発展の礎を築いた手腕は特筆に値する。刀身彫刻は吉長のものではないが、鑚冴えた倶利伽羅を刻した迫力の一振である。
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小刀 銘 近江大掾藤原忠広

Tadahiro

大業物

小刀 銘 近江大掾藤原忠広
 近江大掾忠広は肥前国鍋島家に仕えた忠吉家の二代目。寛永十八年には近江大掾を受領。その作品は、姿、地鉄、焼刃総てが美しいだけでなく大業物に列せられているように斬れ味にも優れており、父の作と共に鍋島家から他国大名家への贈刀とされたほどに高い信頼を受けていた。
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銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 刀剣界において語られる受領銘の「近江大掾」は、忠吉家二代目近江大掾忠広その人を指し示している。この揺るがぬ知名度は、大業物に指定されるほどの切れ味を備えていることはもちろん、小糠肌とも呼ばれる均質に詰み澄んだ小板目肌鍛えに微細な地沸が湧き上がった美しい肥前肌、そして最も整っていると高い評価を受けている洗練された姿形を完成させたことによる。
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銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)
 肥前刀の発展は初代忠吉による鎌倉時代の山城物の再現という大きな目標と、それに突き進んだ研究の結果によるが、師の技術を受け継いでさらに進化させた二代目忠広の力量も忘れることができない。加え、忠吉家が仕えていた佐賀藩主鍋島家による刀工への厚い庇護が効果的に働いたものと思われる。殊に、同藩から他国の大名家などへ、忠吉、忠広の刀が贈り物とされたほどに截断能力の高さと美しさが高く評価されている。
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銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 「肥前国住藤原忠広」「近江大掾藤原忠広」。近江大掾忠広は初代忠吉の嫡子で慶長十九年(1614)生れ。寛永九年(1632)に家督を相続し、同十八年(1641)に近江大掾を受領。以降元禄年間(1688-1703)に至るまで主家鍋島氏の注文に応えて姿の美しい数々の名刀を鍛えている。
1386

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠広(大業物)
 忠広は初代忠吉の子。幼い頃から忠吉家の名跡を継ぐべく鍛冶修業に励み、寛永十八年に近江大掾を受領。自ら忠広の工銘を用いて我が子に忠吉銘を継がせたものの、三代目は五十歳の若さで没したため、以降も一門を率いて四代目を教育、元禄年間まで作刀に励んだ。
1472

銘 肥前国住近江大掾藤(以下切藤原忠広)(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤(以下切藤原忠広)(大業物)
 近江大掾忠広は、最上大業物作者として知られる肥前国忠吉の嫡子で、自らも大業物の斬れ味を誇る名手。父の跡を継いで佐賀藩主鍋島家に仕え、肥前鍛冶の柱として多くの門人を育てた。また、鍋島氏が忠広の品質優れた刀を幕閣や交流のある有力大名に献じたことにより、その名声が全国に広められることとなった。
1106

近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

近江大掾藤原忠広(大業物)
近江大掾忠広は、寛永九年十九歳で父初代忠吉の後を継ぎ、元禄六年に八十歳で没する直前まで槌を振るって優品の数々を遺し、その作刀期間の長さは他に例をみないほど。その間に、子の陸奥守忠吉や孫の近江大掾忠吉ら優れた門弟を指導し、肥前刀の不動の礎を築き上げた功労者でもある。忠広が求めた肥前刀の本質とは、古作山城来派にみられる小板目鍛えと微細な地沸の複合になる鋼の美の極致。
253

銘 肥前国住藤原忠広(大業物)

Tadahiro

大業物

銘 肥前国住藤原忠広(大業物)
 銘の特徴から寛永十年前後に鍛造されたと推定される肥前近江大掾忠広の初期作。地景が顕著に表れた冴えた地鉄は忠広初期作に多く見る特徴の一つである。
269

銘 近江大掾藤原忠廣 真鍛 (大業物)

Tadahiro

大業物

銘 近江大掾藤原忠廣 真鍛 (大業物)
 江戸時代前期。肥前国「肥前国住藤原忠広」。寛永九年、齢十九にして肥前刀剣王国の二代を継ぐ。切れ味鋭い大業物として名高い。寛永十八年に近江大掾を受領。元禄六年没。真鍛の添銘ある作はいずれも出来口優れ、世の賞玩極めて高い。
1150

菖蒲造脇差 銘 忠広(近江大掾) (大業物)

Tadahiro

大業物

菖蒲造脇差 銘 忠広(近江大掾) (大業物)
  寛永十年に亡父武蔵大掾広の跡を継いだ近江大掾忠広が、その翌年に弱冠二十歳で鍛えた作。忠広は早熟の天才で、近江大掾受領以前の初期作にも、覇気に満ちた優品が多い。
1519

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro (Omi daijo)

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)
 忠広は初代忠吉の子で慶長十九年の生まれ。初代忠吉が追求した鎌倉時代の山城来国俊や国光などの作風を再現するべく良く詰んだ小板目鍛えを受け継いで小糠肌とも呼ばれる独特の肥前肌を完成させ、綺麗に揃った沸の帯状からなる直刃を焼くを得意とした。乱刃としては、志津写しの湾れ互の目、焼頭が揃って足が長く入る互の目丁子、二つずつ連れた互の目に葉の入る虻ノ目刃、逆がかった互の目丁子なども焼いている。
1217

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)

Tadahiro (Omi daijo)

大業物

銘 肥前国住近江大掾藤原忠広(大業物)
 近江大掾忠広は五字忠吉こと肥前国忠吉初代(武蔵大掾忠広)の子。寛永九年に十九才で家督を継ぎ、佐賀藩主鍋島侯に仕えた。近江大掾の受領は寛永十八年七月二十二日。受領の前、そして受領した後間もない若い頃には、忠吉家の次代を担うべく想いを込めたものであろう、豊かな感性に努力が積み重ねられて溌剌とした作が多い。
1405

銘 肥前国住藤原忠広(二代)(大業物)

Tadahiro (The 2nd)

大業物

銘 肥前国住藤原忠広(二代)(大業物)
 寛永九年に父を喪い、19歳で二代目を襲名した忠広は古参の門弟達に鍛えられ、また才能豊かな従兄弟の左伝次(河内大掾正広)と競って技術を磨き、寛永十八年七月二十二日に近江大掾を受領した。直刃を得意とし、丁子刃も能くした忠広二代の、殊に受領前の作は、乱れが大きく沸強く、金線と砂流しが目立つ覇気のある作が多い。
608

銘 肥前国忠広(二代)(大業物)

Tadahiro(the 2nd)

大業物

銘 肥前国忠広(二代)(大業物)
 肥前国忠吉の嫡子忠広は並みならぬ感性に加え、忠吉家の未来を背負う立場として幼い頃から修業を積んで技量優れ、早くから高い評価を得ていた。父の晩年は代作代銘を勤め、その没後は家督を継いで十九歳で棟梁となり、寛永十八年に近江大掾を受領している。肥前刀を幕閣や親しい大名への贈品とした藩主鍋島侯の需に応えて鎚を振るい、優品の数々を打った。
722

折返銘 高天神(兼明)

Takatenjin (Kaneaki)

大業物

折返銘 高天神(兼明)
 高天神兼明は本国美濃で高天神城下に居住した刀工。激烈な戦いと武将の生死を目の当たりにして鍛刀した故か、遺作には戦国気質が充満し、しかも現存作は稀で、愛刀家の声望が殊に高い。
 本作も磨り上げたものの「高天神」の銘字が失われるのを惜しんで折返銘とされており、今なお身幅重ね充分で殆ど無反り、腰樋が掻かれて刺突と截断と両方に利のある戦国武将好みの一振。
378

銘 高天神 金粉銘 兼明

Takatenjin(Kinpun mei Kaneaki)

大業物

銘 高天神 金粉銘 兼明
 高天神城は戦国武将今川氏親が重臣松井宗能に築かせた遠江国南端の山城。「高天神を制する者は遠江を制する」と云われた戦略の要衝で、桶狭間で義元が没した後、城を巡り徳川と武田による激しい争奪戦が展開されたことで良く知られている。この城下に来住した高天神兼明は刃味と操作性に優れて武将の信頼厚く、古来人気が高く、それが故に激戦のうちに消費され、今日遺作を見る事は極めて尠ない。
1497

銘 坂倉言之進照包 延宝九年八月日(大業物)

Terukane

大業物

銘 坂倉言之進照包 延宝九年八月日(大業物)
坂倉言之進照包は越後守包貞(かねさだ)二代の後銘。江戸前期、大坂城の西側に広がる町には、大波を想わせる濤瀾乱刃を創始した越前守助広を筆頭に、井上真改、河内守国助、一竿子忠綱などが犇めき、刀史に残る数多の名刀を手掛けた。照包はその一翼を担った優工。助広と同じ常盤町に居住し、覇気ある地鉄に助広同然の見事な濤瀾乱刃を焼いて人気を博した。
1457

銘 備州長舩康光 応永廿二年八月日 (大業物)

Yasumitsu

大業物

銘 備州長舩康光 応永廿二年八月日 (大業物)
 「備州長船康光」「康光」左衛門尉。康光は室町時代初期に活躍した備前刀工。地鉄に応永杢と呼ばれる独特の杢目肌が見られる。二字銘に特に優れた作がある。
1270

平造脇差 銘 備州長船康光 応永二十四年正月日 (大業物)

Yasumitsu

大業物

平造脇差 銘 備州長船康光 応永二十四年正月日 (大業物)
 康光は「応永備前」として盛光と並び尊称された名工。太刀にも名品はあるが、寸の延びた短刀や小脇差が多い。これは当時、太刀を佩用して室町御所に入る事はできず、許されたのは腰刀のみであったため、武士たちは一尺三寸前後の腰刀で室内での危機に備えたため。
420

銘 波平安常

Yasutsune

大業物

銘 波平安常
 安常は鎌倉時代より続く波平鍛冶の五十九代と伝え、示現流剣術で知られるように、独特の剣術を背景に豪刀を使う武士からの注文に応じ、覇気ある相州伝を専らとしていた優工である。
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