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優品紹介

日本刀専門店
銀座長州屋

信号銃 銘 伊賀銃名張士 青木元直作
​        慶応三年八月日

全長幅23.8糎 銃身長 14.6糎 口径約3.2糎 売約済

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(刀工による製作)

 伊賀名張の刀工青木元直の手になる貴重な信号銃の遺例。元直は生年天保六年三月二日、青木元長、尾崎助隆、月山貞吉に学んだ父、青木元宗の子として生まれる。父元宗は藤堂 長徳(名張藤堂家九代藩主)の覚え目出度く、兵器取扱い係を拝命、明治十六年には士族に列せられていることから、元直も西洋の最新式の武器の開発に従事したものと推定される。


(信号銃の伝来)


 信号銃とは照明弾などを発射する拳銃型の信号用具で我が国では西洋式軍制の導入が図られた江戸時代後期にもたらされたものである。

 

(国防意識の高まり)


 往時の我が国を取り巻く環境は西洋列強による露骨な砲艦外交を前に国防意識が飛躍的な高まりを見せ、島津斉彬など開明的な君主による西洋技術の国産化策を筆頭に、一方では水心子正秀による復古刀理論の興隆や土佐の左行秀や備前の横山家の各工による銃砲製造の実践、肥前の八代忠吉、九代忠吉による蒸気船や洋式大砲の建造など最新技術の導入の研究(銀座情報384号参照)、さらには反射炉を築き、西洋砲術の普及に努めた江川太郎左衛門への大慶直胤の献身的な協力(注1)など、身分の上下を問わず諸外国からの侵略に対する危機感が全国的な広がりを見せていた時代である。

 

(アーネスト サトウの日誌)

 このような状況下にあって、信号銃がどのように実戦で使用されていたかを確認できる貴重な文献資料が存在する。イギリス外交官、アーネスト サトウ(1843-1929)が四国艦隊の下関砲撃に先立って、下関の砲台の状況を偵察した元治元年六月二十九日の日記である。

 

関門海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダの艦船に、砲撃を加え、攘夷を実行した長州藩は列強との軍事衝突に備え、彦島から長府に至る沿岸各所に砲台を設置していた。一方、列強各国はこの砲台の位置や大砲の数などを偵察するために艦船を派遣、これに搭乗したアーネスト サトウが残した記録が後述の日記である。

 

―以下抜粋―

 

元治元年(甲子)六月二十九日

午前三時半に抜錨し、下関海峡に向かう。バロッサ号は、下関の手前約10マイルのところで投錨したが、私達はコーモラント号で、さらに伊崎岬に向かって進んだ。海峡の入口をなかばすぎたとき、長府からサホにかけて、北岸沿いに信号弾が発射されるのを見た。

 

 

(西洋武器の急速な普及)

 この日記の書かれた元治元年(1864)は黒船来航(注2)より数えて僅か11年後であり、この時に既に異国船の接近を伝える手段として信号銃が使用されていたのは意外な事実といえよう。その信号銃の形状については現在では判らないが、本作類似のものであった可能性は高い。

 

(最新装備自製への道)

 ところで、本作は真っ二つに切断されている状態である。切断面の保存のために朱塗料が施され、銃握部の切断面には記録用の記号が刻印されている。このような状況から本作はおそらく後世の技術者が内部構造を精査するための研究資料として使用したものであろう。

 

(陸軍十年式信号銃との類似)


 因みに、本作によく似た信号銃に陸軍十年式信号銃があり、その特徴は太い銃身が内部で二段となる点や、削り出しで工作されている点、加えて中折れ式で、撃鉄の前にある突起を親指で押し下げると銃身のロックが外れて銃身が前方に折れ、後部が開き、信号弾を挿入出来る点など本作との共通点が多く、想像を逞しくすればこの十年式信号銃の製作にあたり、その製造者たる東京工廠・小倉工廠の関係者が研究資料用として用いた可能性がある。

 

幕末の国難に際会し、列強に伍する装備品の開発を急務とした往時の切迫した状況とそれを可能にした我が国の技術力の高さを示す非常に印象深い遺例である。

 

(注1)刀剣美術707号・708号「伊豆韮山代官・江川太郎左衛門英龍と大慶直胤」(上・下)小島つとむ著 に詳しい。

(注2)アヘン戦争の経緯を知る当時の日本人にとって黒船来航は主権侵害を咎めることができなかったという点で黒船来襲に近い感覚があった推測する

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