2025年2月13日 8:19:30
Imazu

第十八回 山城刀の魅力
山城鍛冶の誇り
自らの居住地を「平安城」あるいは「洛陽」と呼び、刀の銘文に添えて切る山城国の刀工があります。平安城長吉や堀川国広や出羽大掾国路などがその代表例で、京都こそ文化の中心地であるとの誇りが銘文から読み取ることができます。
京都 清水寺
政治権力と日本刀芸術
武士が携えた太刀や刀という意味での日本刀の歴史は平安時代に始まります。武器は戦いの道具ですから、古代にあっても近代にあっても権力と密接な関係をもつ重要な物資であることは論を待ちません。
政治 ・芸術文化の中心地である山城国で重要な戦略物資である日本刀の技術改革が進み、創造性と芸術性が磨かれたのは偶然ではありません。
備前国、大和国、そして山城国いずれの地においても同様に改良を重ねるという動きがありましたが、この発展の過程において、政治権力が日本刀の芸術性や作刀技術を保護・育成してきた事実は、日本刀が単なる芸術作品ではなく、権力を担保する武具という特殊性を備えていることから、いわば必然であったと言えるでしょう。
その最たる例が平安遷都以降天皇を戴く山城国の刀剣です。
そしてまた、後の江戸時代初期には、鎌倉時代の山城国の古作を手本とした、より美しい刀造りが盛行していることも、日本刀を考える上で見逃せない事実です。
山城鍛冶を理想とした後の刀工
鎌倉時代の山城刀の作風を採り入れた刀工に肥前国(佐賀県)の忠吉がいます。
肥前国鍋島家に抱えられ、刀造りを藩の産業としたのが江戸時代初期に活躍した忠吉で、初代忠吉以降は二代近江大掾忠廣、三代陸奥守忠吉・・・と江戸時代を通じて栄えています。その特徴は、均整のとれた姿格好と、微塵に詰んだ小板目肌に微細な地沸が付いた肥前肌とも小糠肌とも呼ばれる美しい地鉄、小沸出来の直刃にあります。
写真①は慶長十年代の初代忠吉の刀です。元先の身幅に大きな差がなく、がっしりとした造り込みであり、戦国時代の影響を受け継いでいるのが判ります。わずかに区が送られて二尺三寸弱に仕立て直されていますが、総体に生ぶの様子を留めており、凄みが感じられます。
写真 ① 肥前国忠吉
写真②は二代忠廣の、まだ近江大掾を受領する前の若かりし二十五歳の作です。時代は寛永頃で、慶長頃のような頑強な印象はなく、寸法は二尺四寸半、すらりとした伸びやかな姿格好で、元先の身幅のバランスも良く仕立てられています。
写真②
刀と太刀
いずれも刀ですが、これまでいくつかの作品を紹介してきましたので、他の刀とは異なっている点に気付いた方もいるかと思います。そうです、銘文が刀とは逆側に刻されているのです。それが故に、太刀のように刃を下にして展示します。
肥前刀の刀には他の多くの江戸時代の刀工とは逆面(差裏・佩表)に銘を切るという掟があります。ただし、脇差や短刀には通常と同じく差表に銘を切っています。
初代忠吉 太刀銘に切る
二代忠広 太刀銘に切る
山城伝 その魅力の深奥
さて、表題が「山城刀の魅力」で あるにもかかわらず、なぜ肥前刀工が紹介されているのであろうかと疑問に感じる方もおられるかと思います。それらの理由は、次回に説明しましょう。
日本刀専門店 銀座長州屋