綴(つづれ)織(おり)(綴錦)の手法は縦糸に横糸を一目毎に織り込む平織りの一種で、単純な平織は縦糸と横糸を織物の端から端まで通して織り上げるが、綴織は複雑な文様を織り出すために色の異なる横糸を必要な部分だけに織り込むため、横糸は織幅いっぱいの通し糸とはならず文様に沿って折り返される。このため、色の境目に「はつり目」とよばれる空間が表れることが綴織の大切な見所となっている。
綴(つづれ)織(おり)の歴史は大変古く二千年前の漢代にはすでに綴織になる絹織物が作られ、我が国には隋使・遣唐使が大陸の文化を伝えた飛鳥時代に伝来したと考えられる。(注①)。
表題の陣羽織はこの綴織の技法になる作で、九谷焼の産地として知られる加賀前田家の支藩、大聖寺藩前田家伝来と伝える陣羽織である。旧蔵者は古今の優れた甲冑武具を蒐集した丸山顕三翁。
寸をやや短く、裾を末広がりとするのは桃山期の陣羽織に多く見るもので、本作が古様式に倣っての作であることが知れる。
表地は浅葱(あさぎ)色(いろ)(注②)に紫糸で織り出された雲立涌文で、親王の指貫や関白の袍(ほう)に用いられる格調高い有職文様が採られており、着用は高位の武将であることは間違いない。背には金糸と黒糸で大きく織り出された豪華な丸に向う梅紋を配し、裏地は薄紅と紅地を二枚重ねとした入念な仕立てである(注③)。
返しには萌黄・薄紅・紫・黄の四色の花菱に深(しん)碧(ぺき)と呼ばれる濃い緑色の小葵を配して華やか。縁と肩章には花菱を染めた絵韋を縫い当てて縁取りとし、家地との境目を萌黄・白・黒の色糸で蛇腹伏を施し、肩章の縁は紫糸の蛇腹伏と白・紫・黒糸を一針一針に縫い留める伏縫いとしている。
この伏縫いは大名具足など最高級の甲冑具足にのみ用いられる非常に贅沢な手法で、熟練した刺し子であっても一日がかりで数糎ほどしか縫い進めることができないという。表身頃と後ろ身頃、そして前身頃と返しを留める鞐(こはぜ)(鍵状の金具)は枝菊に魚子を蒔いた高彫金具とし、返しを繋ぐ釦は魚子地に高彫で二輪の梅花を意匠して余念がない。
信長、秀吉を初め桃山時代に全盛を極めた陣羽織には種々様々な意匠を凝らした個性的な遺例が多く伝えられている。これらの陣羽織は甲冑同様、武将その人を表す象徴としての意味を持ち、武人それぞれの好みを色濃く表しているという点が何にもまして魅力であろう。背に大きな金の梅鉢紋を配した本作には家門を誇りに思う当時の武家の精神が宿っている。
(注①)勅封の正倉院遺物中に紫地菱文綴錦(北倉一八二)など複数の遺例が確認できる。
(注②)浅葱色(あさぎいろ)、ごく薄い藍色のことである。また、現在は明るい青緑をこう呼ぶこともある。
(注③)裏地に僅かながら虫食いの小穴があり、裏地二枚が看取される。