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千里眼-刀
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「業物位列」は、須藤五太夫睦済(すどうごだゆうむつずみ)と山田朝右衛門吉睦(よしむつ)が行った試し斬りを拠り所に、柘植方理平助が刀の斬れ味の良否を位付けした切れ味の評定位列。
評定として「最上大業物:さいじょうおおわざもの」「大業物:おおわざもの」「良業物:よきわざもの」「業物:わざもの」の四つの位列がある。

最上大業物

Copy right Ginza Choshuya
Production work Tomoriki Imazu

日本刀販売専門店 銀座長州屋

​価額未表記は売約済または価額応相談のものです
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銘 肥前国忠吉(初代)

最上大業物

Tadayoshi (The founder)

銘 肥前国忠吉(初代)
 肥前国忠吉(ごじただよし)は、鍋島勝茂に見出され、慶長元年には主命で京埋忠明寿の門を叩き、業成って同三年に帰国、佐賀城下長瀬町に屋敷地と鍛冶場を拝領した。忠吉と共に明寿に学んだのが彫師の宗長。以後彫刻の技術は吉長、忠長と続き、剣巻龍や籏鉾の刀身彫刻もまた肥前刀の魅力の一つとなった。
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銘 肥前国忠吉(初代)(最上大業物)

最上大業物

Tadayoshi (The founder)

銘 肥前国忠吉(初代)(最上大業物)
 肥前國忠吉初代は元亀三年の生まれ。大きな兵乱の渦中、祖父と父に死別して天涯孤独となり、親類の鍛冶屋に身を寄せて鍛刀の修業をしたと伝え、その後肥前藩祖鍋島勝茂公に見出され、その命で慶長元年に京の埋忠明寿に師事している。帰国後、佐賀城下の長瀬町に屋敷を拝領し、鍋島侯の命で来国俊、手掻包永、志津兼氏、備前長義等を範に名刀の数々を手掛けた。
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無銘 肥前国忠吉(初代) (最上大業物)

最上大業物

Tadayoshi (the founder)

無銘 肥前国忠吉(初代) (最上大業物)
 肥前国忠吉、後の武蔵大掾忠廣は佐賀藩鍋島勝茂侯お抱えの刀工。鍋島侯は忠吉に命じて、鎌倉時代の名工、例えば、美濃の志津兼氏、大和手掻包永、山城来国俊や国光等を範に打たせた刀を幕閣や有力な大名衆に贈呈し、円満な交際と交渉を図っていたことは有名。本作にも地鉄にそのような古風な味わいが感じ取れる。古作、なかんずく、大和手掻包永に見紛う見事な出来栄え。
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銘 肥前国忠吉(初代)(最上大業物)

最上大業物

Tadayoshi (the founder)

銘 肥前国忠吉(初代)(最上大業物)
 忠吉は江戸初期の肥前の刀工。佐賀藩主鍋島勝茂侯に見出され、その後援で慶長元年に上京して埋忠明欽と明寿の父子に学ぶ。鍋島侯は帰国した忠吉に極上の鋼を用意し、古作を手本とする数々の刀の製作を命じた。鍋島侯は、忠吉が懸命に鍛造したこれらの作を幕閣や知音の大名衆に贈り、江戸城での社交に活かしたのである。主命に見事に応えた忠吉の評判は上がり、「肥前国忠吉」の呼称は、今や名刀の代名詞となっている。
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