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#89 【日本刀専門店 銀座長州屋】長州征伐 後日譚 慶応二年 小瀬川運命の岐路(長州征伐 刀秘話3)

#日本刀 #日本刀販売品 #日本刀買取 #日本刀銀座 #日本刀東京 #刀剣 #品川清兵衛 #竹原七郎平 #長州征伐 長州征伐 後日譚 慶応二年 小瀬川運命の岐路 小瀬川運命の邂逅 品川清兵衛と竹原七郎平 脇差 銘 津田越前守助廣 延宝九年二月日 短刀 銘 備前國長船住長光造 正應元年八月日 慶応二年6月14日、安芸と周防の国境、小瀬川の畔で二人の運命が邂逅する。 長州藩戢翼団団長品川清兵衛、そして彦根藩士竹原七郎平。 運命の皮肉な采配、と言うべきだろうか、様々な要因が二人の運命に明暗を差す。 敗者は戦場となった小瀬川に散り、そして勝者は敗者の形見を百年後の子孫に残し託した。 お待たせいたしました。【長州征伐刀秘話 3】最終話です。 慶応二年の第二次長州征伐、芸州口の戦いの長州軍勝利の立役者、品川清兵衛の子孫の方から託された大小一腰は、対戦した相手の彦根藩士の物だった! 前回の動画で導かれた驚愕の結論に、社長の深海が百五十年前の当事者たちの心情に寄り添いながら、改めて刀と芸州口の悲劇に思いを寄せております。 品川清兵衛が子孫に託した刀が150年の未来に伝えたものは、それに関わった人たちすべての「人生」の記録だったのではないでしょうか? 少し(かなり?)センチメンタルな最終回となっております。 そして・・・ 最後の最後に、切なさに少しの希望も入り混じる、驚きの「後日譚」も! 【長州征伐刀秘話 最終回】お見逃しなく。 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 撮影・音声 一木 監修 高橋 浄久 日本刀の販売品をお探しの方は銀座長州屋サイトへ →https://www.choshuya.co.jp 日本刀の買取相談は銀座長州屋買取サイトへ→ https://www.choshuya.ne.jp https://youtu.be/fXwi6KHF7FQ

#88 【日本刀専門店 銀座長州屋】長州征伐・刀秘話(2)真偽鑑定 長光と助広

#日本刀 #日本刀販売品 0#日本刀買取 #日本刀銀座 #日本刀東京 #刀剣 #長州征伐 長州征伐・刀秘話(2) 真偽鑑定 団長品川清兵衛の長光と助廣 脇差 銘 津田越前守助廣 延宝九年二月日 短刀 銘 備前國長船住長光造 正應元年八月日 慶応二年6月14日、第二次長州征伐、芸州口の戦いに参戦した戢翼団団長 品川清兵衛の刀をめぐる物語と考察。 前回動画の最後で、「刀の話?今の話に比べたら、刀の話なんか小さいもんだよ」なんて言い切っていた社長の深海ですが、勿論、ちゃんと刀も見ていきます。 第二回の今回は、戢翼団長品川清兵衛の短刀長光と脇差越前守助廣の真偽を鑑定いたします。 大小一腰の大は大坂新刀の横綱助廣の、それも「丸津田」と称される延宝九年紀の脇差。そして小の方は御物や国宝に列せられている作も多い、備前長船の名工長光の短刀。 いずれも日本刀を代表する作家です。 以前の動画で公開した「秘術」も振り返りつつ、この名刀二振を、深海の鑑定メソッドに沿って鑑定していきます。 長光と助廣の大小一腰。果たしてその真偽は―?そしてそこから展開するさらなる考察とは!? 【真偽鑑定 団長品川清兵衛の短刀長光と脇差越前守助廣】お見逃しなく。 #70 真偽鑑定 助広→https://youtu.be/_gSeKGTYxqE 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 撮影・音声 一木 監修 高橋 浄久

#87【日本刀専門店 銀座長州屋】第二次長州征伐 四境戦争 芸州口の戦い団長品川清兵衛の刀

脇差 銘 津田越前守助廣 延宝九年二月日 短刀 銘 備前國長船住長光造 暦應元年十二月 2025年7月某日― 一人の男性が実家に伝わる大小一腰をご売却にご来店されました。 大小の長い方は脇差で延宝年紀の越前守助廣、そして短刀は長光。外装も中々のものです。 これだけであれば、いつもの、言ってしまえば「ごくありふれた」お買い取の一連の流れとして、そこで終わっていたはずでした。 所持者の方がお刀と一緒にお持ちになられた資料の数々、これこそが実は重要な、意義を持つものだったのです。 慶応二年 第二次長州征伐 今を遡ることちょうど160年前。倒幕の最先鋒の一角だった長州藩を武力で制圧する目的で、徳川幕府は連合軍をかの地へと派遣しました。 戦地となったのは、四ケ所、小倉口、石州口、大島口、そして芸州口。 後にこの四つの戦地から「四境戦争」とも呼ばれるこの一連の戦いにおいて、幕府が決戦の地とみなし、精鋭を配したのが安芸国と周防国の国境、芸州口でした。 国境を流れる小瀬川の芸州側大竹村に布陣する幕府軍彦根藩。対する長州軍は周防国和木村に民兵を中心とした戦力で迎え討ちます。 そして運命の6月14日。 朝霧立ち込める小瀬川を停戦の勅書を掲げて渡って来た彦根藩の使い番、竹原七郎平以下3名に向けて長州軍の最新式のライフル銃が火を噴きます。 川の中に斃れる彦根軍の兵士たち。そしてそれを合図に戦いの火蓋は切られたのでした。 この時、発砲の合図をした人物、民兵組織戢翼団の団長品川清兵衛。 開戦の銃撃を命じた彼こそが、今回の所持者のご先祖様だったのです。 国境の小さな村で上がった幕府の終焉と新時代を告げる時の声。 発砲を命ずる周防国戢翼団団長品川清兵衛と、その銃弾に斃れた彦根藩士竹原七郎平。 邂逅する新時代と旧時代。 その歴史の証人として代々受け継がれて来た大小一腰の刀。 同郷長州藩の出身でもある社長の深海の考察を展開いたします。 お見逃しなく。 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 撮影・音声 一木 監修 高橋 浄久 考証 小島つとむ

#86【日本刀専門店 銀座長州屋】名工 左行秀の生涯と幕末史(天才刀工の光と闇 その2)

幕末の名工 左行秀 刀 銘 於江府左行秀造之 慶應二年二月吉日 嘉永年間 刀工左行秀 相州伝の作風樹立 才能は大きく花咲く 丁子乱刃を焼く一刀鍛冶から沸深い相州伝の名手として変貌を遂げる。 のちの左行秀、豊永久兵衛が土佐藩に迎えられたのが弘化二年(1845年)。 当時の土佐藩工関田勝廣の後押しを受け、土佐での安定した生活基盤を手に入れた行秀は、 より一層刀作りに邁進していく。 江戸での修業で培った土壌に安定した環境が融合し、新々刀屈指の名工 左行秀が誕生する。 【幕末の名工左行秀】 後編は、時代ごとの行秀の作品を採り上げながら、作風の変遷を解説していくと共に、従来の行秀研究では語られることの無かった行秀の前半生、天保年間の江戸修業期、殊に清水久義との師弟関係と作風についても考察をめぐらせてみました。 #85 【名工左行秀の光と闇】  https://youtu.be/34YC4aESs9g #66【江とオバケは見たことがない 江と則重】 https://youtu.be/niZ2tHMXXuA 《左行秀略歴》 文化十(1813) 筑前国朝倉星丸にて生誕 天保二(1831) この頃江戸に出府か?(18歳)  天保十一 「刀 銘 筑前住豊永行秀 天保十一年子秋」  天保十二 「刀 銘 古田中元壽 應命江府錬之筑州住豊永行秀 天保十二年五月日」  天保十三 「刀 銘 於東武豊永行秀作之 天保十三年八月日」 弘化二(1845)土佐に移住 弘化四(1847)土佐水通町の関田勝廣邸に寄寓 嘉永元(1848)この頃より相州伝の作風確立。最初の打ち盛りを迎える 嘉永四(1851)『新刀銘集録』に寄稿 嘉永六(1853)山内容堂公の参勤交代に従い江戸へ。深川砂村の土佐藩邸に居住。 安政二(1855)土佐藩抱え工に 慶応三(1867)3月板垣退助と対立→水戸浪士隠匿事件へ(動画#85参照) 同      9月土佐へ帰る 明治三(1870)豊永東虎銘での最後年紀の作品が確認できる (この年より段階的に廃刀令が開始される。正式な交付は明治九年) 明治二十(1887)死去(75歳) 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 撮影・音声 一木 監修 高橋 浄久

#85【日本刀専門店 銀座長州屋】龍馬暗殺に関与!? 天才刀工の光と闇

#日本刀 #日本刀販売品 #日本刀買取 #日本刀銀座 #日本刀東京 #刀剣 #坂本龍馬  #板垣退助 #左行秀 幕末の名工 左行秀の光と闇 刀 銘 於江府左行秀造之 慶應二年二月吉日 時は幕末。 尊王攘夷の気運高まる土佐の地に、一人の刀工が刀と士の時代の最後の光芒を放っていた。 刀工銘は左行秀。 筑前に生まれ、江戸で修業を積んだ後土佐に迎え入れられ、後年名誉の藩工となる。 藩主山内容堂をして「今正宗」と絶賛された慶應二年二月紀作、そして本阿弥光博師がこの刀と並んで「双璧」と称えた嘉永六年二月紀(重要美術品)等傑作の数々が生み出される。 彼はまさに栄光の光の中にいた。 いた筈だった―。 抱え工として江戸藩邸で鎚を振るう行秀に、時代の波という運命の陰りが忍び寄る。 尊王倒幕の急先鋒の一角 土佐藩の藩邸内で密かに謀議されていた不穏な動きを看過できなかった彼が、懊悩の末とらざるを得なかった行動。 栄えある藩工から裏切者へ―。 彼の投じた一石は、巡り巡って維新の傑物、坂本龍馬の命運をも左右していったのか―? 稀なる才能を持ちながら、明治維新という大きな時代の渦に巻き込まれ、新時代の光が落とす深い影へと吞み込まれた左行秀の生涯と明治維新、前編です。 お見逃しなく! 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 撮影・音声 一木 監修 高橋 浄久

#84 兜割 生死を分けた1㎝ 文禄・慶長の役 2

#日本刀買取 #日本刀販売品 #日本刀東京 #刀剣 #兜割 日本刀専門店 銀座長州屋チャンネル #84 兜割 生死を分けた1㎝ 文禄・慶長の役 2 文禄二年・慶長二年の二度に亘った太閤豊臣秀吉による朝鮮出兵。 明の征服という途轍もない秀吉の野心は、その足掛かりとされた朝鮮半島を凄惨な戦闘で染めていった。 栄誉か、さもなくば死か― 派兵された日本軍の一人、弱冠二十二歳の若武者大河内秀元は、朝鮮の地で己の立身を賭け、 戦の最前線に立つ。 そして、運命の慶長二年八月十五日― 南原城で秀元の運命の歯車が大きな音を立てて回り出す。 向かうは敵の大将。 身の丈七尺の偉丈夫が振り下ろす三尺の刀の、雷のような一撃が秀元の椎形兜に打ち下ろされる。引き裂かれる兜の轟音は耳をつんざき、更なる斬撃を受け、まさに滅多打ちにされる秀元・・・ そして時代は流れる。 南原城の死闘から半世紀以上の後、泰平の江戸の世に、戦記『朝鮮物語』として、大河内秀元の若かりし日の死闘が克明に蘇る。 そしてそこから更に400年― 令和の今に残された大河内の兜。そこに刻まれた斬跡が物語る、僅か1センチの生死を分けた攻防の記憶。 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 歴史資料監修 小島つとむ 監修 高橋 浄久 日本刀専門店 銀座長州屋ホームページ https://www.choshuya.co.jp 日本刀専門店 銀座長州屋 買取案内 https://www.choshuya.ne.jp https://youtu.be/nr1Sh1lJf8o

#83【日本刀専門店 銀座長州屋】文禄・慶長の役 死闘 兜割り!

#日本刀 #日本刀販売品 #日本刀買取 #日本刀銀座 #日本刀東京 #兜割り 一見、よく見るような何の変哲もない椎形の鉄兜。 しかし、この兜の真価はその鉢の裏側にあるのです。 内側に一ケ所残る鉄板を貼り付けた補修痕。 それを目にしたときに、社長の深海の脳裏に一つの記憶が点る。 兜愛好者であれば誰もは目を通すであろう、名著『戦国変り兜』のとある一節― 慶長の朝鮮の役の様子を記した『朝鮮記』(寛文三年自序)に、大河内秀元が、   椎形ノ甲ノ手辺ヲウケハリ際マテ六寸ハカリ 切り破られたことがみえ、(『戦国変り兜』文中ママ) ―椎形の兜? ―手辺(天辺)をウケハリ(受け張)際? まさか!? まじまじと裏側に残る補修痕を見る。 兜の形状、そして補修痕の位置。 これは、もしかしたら― 400余年の時を経て、兜に再び、今度は現代利器のメスが入る。 慶長の時代に海を渡って朝鮮へ向かった一武将の足跡と令和の世が一本の線で結ばれる―? 展開必見!【豊臣秀吉の朝鮮征伐 慶長の役で切り裂かれた兜】 前後編の前編です。 お見逃しなく。 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 監修 高橋 浄久 https.www.choshuya.co.jp https://www.choshuya.ne.jp https://youtu.be/4n72FjOY_lo

#82【日本刀専門店 銀座長州屋】 平安の太刀 五 源平盛衰記に登場 あぁ無念 騙し討ちに散る!

日本刀の形状が確立された以後の刀では現存品最古と見られる平安時代中期の太刀。 1000年の歴史 平安時代の太刀 をシリーズでお送りしております。 古波平と極められた、平安時代の太刀。 波平は薩摩の古い地名を由来とし、その地で鍛刀を行った鍛冶集団を指します。平安時代を起源とし、以後南北朝までの作が「古波平」と区分されます。 鎌倉時代より幾多のエピソード、記録に散見される「波平」の名刀。 中央から遥か彼方の最南の地、薩摩で何故名刀は生まれたのか? 背景となった様々な要因を挙げ検証、その謎に迫まります。 加えて、源平盛衰記に登場する平家の猛者越中前司盛俊の最後の場面とそこに登場する波平の太刀を紹介いたします。 1000年の歴史 平安時代の太刀 五 【南海の名刀 薩摩波平】お見逃しなく。 平安の太刀 シリーズ 全五回 #78 :https://youtu.be/u8ax0UCE6PY #79 :https://youtu.be/WgdQBfGeyC4 #80 :https://youtu.be/U3fDIAvfCZs #81 :https://youtu.be/QAvhFn_c_aM #82 :https://youtu.be/vT_MOwbrJjY

【日本刀専門店 銀座長州屋】 #81 平安の太刀 四 八つの傷を持つ刀

太刀 生ぶ茎無銘 古波平 黒漆塗鞘打刀拵 日本刀の形状が確立された以後の刀では現存品最古と見られる平安時代中期の太刀。 1000年の歴史 平安時代の太刀 をシリーズでお送りしております。 刀身にまさに喰い込むかのように鋭く刻まれた斬り込み痕―。シリーズ第四回では、この斬り込み痕について前回の動画からさらに踏み込んで解説いたします。さらに、刀身が収められていた黒漆塗鞘の拵についても詳しく見てまいります。 刀身の斬り込み痕は、室町時代の馬上での戦闘で生じたものである―。 前回の動画ではこの事実が明らかになりました。今回は、この斬り込み痕の場所から、さらに踏み込んで、戦闘のどのような局面で付いたものかを更に検証していきます。 そして動画の後半では、刀身と共に現在に伝えられた、戦闘当時の生ぶの拵(外装)が登場!! 1000年の歴史 平安時代の太刀 四 【斬り込み痕と時代を伝える打刀拵】 お見逃しなく。

【日本刀専門店 銀座長州屋】 #80 平安の太刀 三 打ち込み痕跡

太刀 生ぶ茎無銘 古波平 日本刀の形状が確立された以後の刀では現存品最古と見られる平安時代中期の太刀。 1000年の歴史 平安時代の太刀 をシリーズでお送りしております。 刀身にまるで喰い込むかのように鋭く刻まれた斬り込み痕―。シリーズ第三回では、この斬り込み痕について詳しく解説してまいります。 平安の世に刀が製作されて一千年余、刀身に無数に残るこの斬り込み痕は、いつ、そしてどんな状況で生じたものなのか? 当時の戦の様式、そしてこの太刀の形状から多方面に亘って検証! もしかしたら従来定説とされていた観念も覆る・・・かも!!? 平安時代の太刀 三 斬り込み痕 お見逃しなく。 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 監修 高橋 浄久

【日本刀専門店 銀座長州屋】 #79 千年の歴史 平安の太刀 二 検証編

日本刀の形状が確立された以後の刀では現存品最古と見られる平安時代中期の太刀。 1000年の歴史 平安時代の太刀 をシリーズでお送りしております。 シリーズ第2回の今回は、平安時代の日本刀が持つ特徴や見所を石井昌国先生の研究結果をもとに銀座長州屋の深海が『古波平』を例に挙げて実証的な検証を加えます。 観智院本銘尽に見る符丁・埋焼(うずめやき)・大和太刀風情など平安時代の太刀に見る特徴と上古刀や蕨手刀などの研究の大家であられる石井昌国先生が唱える平安の太刀の掟。 この二つの決定的な資料と研究を基礎に銀座長州屋の深海独自の視点を交えて古波平の太刀の制作年代に迫る検証編です。 平安の太刀の深奥に迫触れる驚きの内容が今明らかに!お見逃しなく! 古代の刀剣シリーズ完結! 6世紀後半の遺物か!? 黄金の鳳凰は 本物? 偽物? https://www.youtube.com/watch?v=VCNLvBlw0mA 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 時代考証 小島 監修 高橋 浄久

1000年の歴史 平安の太刀

1000年の歴史 平安の太刀  美しい反りを持った太刀。 日本刀が歴史上に現れたのは平安時代であるとされております。 今回の動画で採り上げる、古波平と極められたこの太刀は、平安時代中期のものと推定されており、史上最も古い年紀として知られる平治二年紀の行正を、製作年代の上で凌ぐと鑑られます。 しかも製作当初から現在に至るまで、姿に一切手を加えられていない、生ぶ茎。 切先から茎の先端まで、製作された千年の昔から変わらぬ姿で、令和の世に現存する この稀有な作を、余すところなく鑑賞、解説してまいります。 博物館、美術館でも滅多にお目にかかることのない、平安時代中期の太刀、隅から隅まで全て!お見せ致します。 お見逃しなく! 【参考】 Youtubeチャンネル#57 なんだこりゃ? 正倉院? 聖徳太子の時代の刀 https://www.youtube.com/watch?v=6t5mT3pxw8A&t=620s Youtubeチャンネル#16 鎌倉殿の13人 梶原景時に何が起こったか?【国宝 狐ヶ崎為次】 https://www.youtube.com/watch?v=Dh7HNDcZMGk 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 監修 高橋 浄久

#77【日本刀専門店 銀座長州屋】「江戸のダヴィンチ」 天才科学者 国友一貫斎の火縄銃

火縄銃 銘 二重巻張 江州國友藤兵衛 能当  戦国時代の天文十二年(1543年)に種子島に伝来した火縄銃。以降、その新しい武器は長篠の合戦、関ケ原の合戦といった歴史のターニングポイントとなる合戦の勝敗の行方を決し、戦国の世から新しい時代へと歩みを踏み出させることとなった。 合戦の在り方を激変させたといっても過言ではない、戦国以降の戦の主要武器となった火縄銃の製造を生業としていたのが、近江国国友村(現在の滋賀県長浜市)を拠点とした国友一派。今回は同派きっての名工、国友一貫斎藤兵衛 能当の在銘の火縄銃を取り上げてまいります。 国友一貫斎と言えば、本業の火縄銃の製作はもとより、天体望遠鏡を自作して日本で初めて太陽の黒点を観察し、月面の詳細な地図を作製した、「科学者」としての側面も持つ人物。 他にも阿蘭陀伝来の空気銃を参考に、それを遥かに凌ぐ性能の連射式の空気銃(気砲)を製造する等、その多方面に亘る万能の才能と能力から、「江戸のダヴィンチ」「江戸のエジソン」と異名される、マルチの天才として知られております。 徳川の泰平の治世も後半に差し掛かり、依然鎖国下でありながらも激変する世界の情勢の影響を無視することが出来なくなった江戸後期。 八代将軍吉宗が洋学を解禁し、それにより平賀源内、司馬江漢といった西洋の文明をいち早く感じ取り採り入れた異才天才たちが世に登場したその後を追うように現れた天才技術者にして火縄銃の名匠、国友一貫斎の人物像から、精巧緻密にしてしなやかで強靭な美しさも併せ持つ一貫斎の手掛けた火縄銃を、つぶさに解説してまいります。 お見逃しなく! 解説 深海信彦 アシスタント 今津 編集 今津 寺尾 監修 高橋 浄久

#76【日本刀専門店 銀座長州屋】 松尾芭蕉 奥の細道3 水玉の鞘から銭が出た!