山水図鐔 銘 染谷知信
Tomonobu
江戸文人画で知られる谷文晁(たにぶんちょう)に絵画を学んだと伝える染谷知信(そめやとものぶ)(江戸後期文政~弘化)の、まさに山水図の境域を鐔面にて試みた、しかも独特の鏨使いによる妙趣が示された作品。
我が国の文人画は、古代中国の貴人が深山幽谷を理想郷とした社会風潮から生み出された山水画などが起源である。ただ、中国の絵画がそうであったように、我が国においても、土佐派や狩野派などの職業絵師による定型化した作品に対して、より自由な視点を求めたのが詩人や文人であり、その余技としての絵画、あるいは詩情を表現する手段の一つとして、既成概念にとらわれない素朴な絵画が求められ、一つの流れを生んだ。もちろん、我が国特有の四季が織りなす自然観が背景にあったことも、大陸深奥の切り立つ懸崖とは異なる鄙びた山水風景の表現につながっていよう。
江戸の文人画家というと、池大雅(享保八~安永五)、与謝野蕪村(享保元~天明三)などがまず挙げられ、この鐔の作者知信の師とも伝える谷文晁(宝暦十三~天保十一)はその次代、浮世絵などが盛んに制作された化政期の活躍。絵画全体を俯瞰しても、同時期には酒井抱一、喜多川歌麿、歌川広重、葛飾北斎などが躍動しており、多様な視点からなる作品が世に問われていたのである。
金工作品においても同様、古典的な観念で山水図を彫り描いた後藤家、俯瞰の視野を得意とした細野政守、日本的な情緒を求めた奈良派、長州鐔工などが独自の風景図を展開している。
その中にあって鏨使いに個性を見出した知信は、伊勢国津出身の金工染谷昌信の子と伝える。ただ、昌信には確たる作品がなく、知信の個性的な作風は絵画を学び突き詰めた末に自らが編み出した技法によるものと言えるであろう。
知信には古典的な山水図のみならず、富岳や二見ヶ浦、江の島など我が国の名所に取材した多様な図が遺されている。
この鐔は、古典を手本としながらも我が国の風情を漂わせる美しい景観を捉えた作。いかなる山中に取材したものであろうか、あるいはまだ見ぬ大陸に思いを馳せ、理想郷として描き表したものであろうか。懸崖の連なる大陸の絶景とは異なる穏やかな山並みながら、わずかながら雲間に切り立つ山の端が窺いとれ、興味は否応なしに想像世界へと広がる。このように思い描く理想空間こそ山水画の本質であり、他の分野に視野を広げれば、古くからある盆景や盆石、盆栽などに求められる自然素材による創造空間にも通じるであろう。
質素ながら品のある建物を水辺の近景に捉えたこの鐔は、わずか二分ほどの厚さの中に、豊かに茂る木々を経て雲に包まれた遥か彼方まで彫り表した知信の傑作。茅葺屋根の屋敷には山裾が迫り、地を這うような木々に包まれて一際清浄な空気のありようを感じさせている。
高床式に水辺に佇んでいるところも古風な山水図を想わせる要素で、池を風景の一部として控え目な構成としていながらも、子細に鑑賞すると池は背後にまで広がって湖水となり、遠く雲に交わっているように感じられる。微妙な抑揚によって表現されたその雲は、表裏表情が異なっており、表は湧き立つように動きが感じられる一方、裏面は空高くに流れる筋雲とされ、空気感の違いを表裏で描き分けている点も興味深い。
池の反り橋と小舟も庭園を、あるいは山水画を構成する添景で、これを眺める人物があることによって、古くは貴人や詩人が喧噪を逃れて理想郷を求めたという本来あるべき人間味を漂わせる景観が完成される。瀧もまた山水図に欠くことのない要素。滔々と流れ落ちる様子が、山の深さと豊かさを暗示している。屋敷の背後に迫る、紅葉が始まったと思しき山裾の様子は、この図において視線が誘導されるところであり作品の要と言えよう。銀を含ませた金により、華やかに過ぎることなく季節の移り変わりをそこはかとなく感じさせているのも日本的である。
知信の技法の特徴に挙げられるのは、山肌や岩場、葉の生い茂った木々の、多様で個性的な鏨による濃密な打ち込み。これにより、文人画の一つの特徴でもある点描によって木々のざわめきを想わせる描写としているところ。岩肌の海風を受けて大小無数の洞が生じた状態、湖水に輝く陽の照り返しもまた微妙な鏨痕で表現している。
素材は質の良い漆黒の赤銅(しゃくどう)地で、安定感のある竪丸形の高彫に仕立て、鋤き下げと鋤出しを交え、地面の微妙な仕上げ処理によって細やかな描写も巧みに大空間の遠近を表現している。独特の鏨使いは木々や岩肌だけでなく、茅葺の屋根や屋内、水面の細波、裏面では砂州の広がりなどの描写にも活かされている。色金は金、銀、素銅と控え目ながら、山を染める紅葉の描写には素銅の叢金(むらがね)や消(け)し込(こ)みの技法が駆使されており、これらが鏨の打ち込みと働き合って色調に変化を成し、美観の要素となっている。
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楼閣透図大小鐔 大小 銘 武州住忠時
Tadatoki
楼閣と聞いて想像するのは「砂上の楼閣」ということわざであろう。しかし、負の意味合いを持つ楼閣図では、鍔の意匠として不適切であり、楼閣図には別に深遠なる寓意が隠されていると考えるべきであろう。
今から千年以上前に范仲淹(はん ちゅうえん)という北宋の政治家がいた。彼の特異な点は、儒教的価値観を如何に政治・社会に浸透させ、これを世に反映させるかという実効性を重視していた点である。
ある時、役人の滕子京(とうしけい)という人物が岳陽楼(がくようろう)という楼閣を修築し、友人である范仲淹に記念文の執筆を依頼したという。范仲淹は『岳陽楼記』と呼ばれる祝文を認め、左遷された滕子京を慰めるとともに、岳陽楼の修築完成を祝したという。この文中にあるのが「先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(天下に先んじて憂え、天下の人々が楽しんだ後に楽しむ)の一文である。
楼閣とは、遠方を見渡し、外敵を警戒するための要所であると同時に、次第に階位が上がる立身出世の象徴でもある。頂に立った者だけが目にすることのできる絶景は、地上の民草には決して垣間見えぬ景色であろう。しかし、楼閣の頂上から何を見るかでその人物の真価が決する。
江戸の鍔工、赤坂忠時が手がけた「楼閣図鐔」には、わずか数寸の金属面に、繊細な毛彫りで楼閣が刻まれている。注文主がこの鐔に託したのは、まさに『岳陽楼記』に記された士の理想と内省の精神であったのだろう。小さな鐔面に凝縮されたこの精神世界は、武士が日々手にする刀の一部として、彼の生き様を傍らから見続けてきたことであろう。
特別保存
300,000
月下繋馬図鍔(鐔) 無銘 柳川派
Yanagawa school
銀色に輝くのは十八夜か、それとも十九夜の月であろうか。薄野原を照らす冴え冴えとした月明かりの下、馬が一頭草を食んでいる。裸馬ではあるが、放れ馬ではない。馬を繋ぐ綱は鐔の耳から裏側へまわり、朽ち木に括り付けられている。旅の途中であろうか、何か物語を感じさせる情景である。小肉のついた耳にまで撒かれた微細な魚子は整然として美しい。量感のある高彫の馬は、大きな目が印象的。柳川派の特徴を示す豊かな鬣と引き締まった力強い体躯をしている。柳川派の祖である直政は、横谷宗珉の直門。横谷式の赤銅魚子地高彫を得意とした。続く直光、直春、直連ら本家の頭領をはじめ門人達も代々その技を受け継いで栄えた。
保存
220,000
三聖吸酸図鍔(鐔) 銘 直丈
Naotake
過剰と思えるほどの装飾だ。点景、背景、装束の文様が色味を変えた金象嵌で隙間を埋め尽くすようにちりばめられている。この作品の主題を装飾に埋もれさせて隠したがっているのではないかと思うほどだ。
大振りの鉄地竪丸形の中央に薄肉彫りで酢の入った大甕を据え、それを囲むように釈迦(仏教)、孔子(儒教)、老子(道教)の三聖人が立っている。何やら楽しそうで、特に中央の釈迦は歯を見せて大笑いしている。「三聖吸酸(さんせいきゅうさん)」または「酢吸三教(すきゅうさんきょう)」と称されるこの図は、誰が舐めても酢は酸っぱいように、教義や宗教が違っても真理は一つであるということをわかりやすく表している。室町時代に中国から伝えられたこの図は禅画で好まれ、後に寺社建築の彫刻にも採られている。裏側は鋤き出された岩の間を清冽な水流 が迸る。清らかな水の流れを遠近、高低で奥行きを出した金象嵌の草木が鮮やかに彩っている。
武陽住と銘する直丈は、作品の類例は少ないが、本作の見事な象嵌技術や表情豊かな人物描写を見れば優れた金工であったことがよくわかる。
特別保存
280,000
雪輪に雪花文鍔(鐔) 銘 壽光(花押)
Toshimitsu
極々浅い打ち返し耳によって強調された、溶けかかった雪玉のような変り形。氷柱で覆われ、降り積もった雪の表面には薄肉彫りと高彫象嵌で美しい雪の結晶が描かれている。小柄櫃を縁取るのは雪輪文 。江戸時代後期、古賀藩主土井利位(としつら)が雪の結晶を観察し、『雪花図説』にまとめ出版したところ、雪花文様(雪の結晶の文様)が大流行した。装剣小道具も大いにその影響を受け、一乗派や東龍斎派に雪花文を主題とした美しい作品があるが、本作からは凍てついた空気まで伝わってくる。渡辺壽光は東龍斎清壽の門人。風景から人物図まで師風をよく受け継いだ優れた作品を残した。
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