芦透鐔 無銘 古赤坂
Ko-akasaka
芦原といえば武蔵野。平安時代、実際にそこを旅した『更級日記』の作者は、「芦、荻のみ高く生ひて、馬に乗りて、弓持ちたる末見えぬまで、高く生ひ茂りて」と芦や荻の草丈を、馬に乗った衛士の持つ弓の先端が見えぬほどだと表現している。赤坂鐔には珍しい、縦長に伸びやかなお多福木瓜形が芦の丈をより高く感じさせる。図柄に溶け込んだ小柄笄櫃は、小柄に比して笄櫃が極端に小さい。切羽台は先端がやや尖り気味。耳に比較して切羽台が薄くなる中低となっている。尾張鐔の造り込みを踏襲しつつ、意匠、形態に新味を加えた過渡期の作であろうか。耳にも、透にも鐔全体に合わせ鍛えの跡が顕著な本作。一部は鍛着面に亀裂が生じ、より一層枯淡の風情を醸し出している。
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桐菊紋図鐔 銘 関義則(花押)
Yoshinori
雙竜軒の号を持つ関義則は龍を彫るのを得意としたがそれだけではない幅広い作域を持った巧者である。黒々として靭性を感じさせる地鉄は鍛え良く、耳際に深く打ち込まれた槌目やうっすらと浮かび上がる網代文による独特の地造りが埋忠の古作を狙って製作したであろうことを物語っている。薄く彫り出された菊と桐は焼手により更に柔らか味を増し、角度を変えて眺めると図像がくっきりと浮かび上がり金布目象嵌が煌めく。寛政十二年(1800年)陸奥国伊達郡川又村飯坂に生まれた義則は十八歳で四国、肥後、長崎に遊学。帰郷して後、二十一歳で両親を亡くすと江戸に出て、陸奥国仙台出身で肥後細川家の抱え工熊谷義之に師事。意味深遠で趣の深い独自の作風を模索し創り上げた。
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獅噛双龍唐草文透図鐔 無銘 南蛮
Nanban
南蛮文化とは、中国南方の海路を経て我が国に渡来した、ポルトガル、スペイン、オランダなどの西洋人が伝えた宗教や文物のことをいう。
表題の鐔は、立体的に、しかも複雑に絡んだ唐草文と龍神を四方に組み合わせ 、耳際に顰を配し、オランダ東インド会社のVOCの紋章を施した、元来の西洋剣に装着されているような構造の頗る珍しい作。ただし、生ぶの小柄櫃を設け、刀を装着する茎櫃の形態であることから、和製の打刀鐔であることが理解できよう。地金は深みのある色調を呈する真鍮地。西洋剣の鐔と同様にわずかに膨らみのある椀形に仕立て、茎櫃の中央には剣の茎を収めるための四角状の切り込みを設けており、ここにも本歌を想わせる写しの装飾性が窺いとれる。さらに七宝文の中を空洞に仕立てて珠を封じ込め、からからと涼やかな鈴の音を響かせる洒落た造り込みが見どころ。
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笹竹に鳥透図鐔 銘 羽州庄内住安親作
Yasuchika
安親は出羽国鶴岡酒井家に仕えた土屋忠左衛門の子で寛文十年の生まれ。長じて酒井家の家老松平内膳の次席用人を勤めたが、その傍らで正阿弥珍久に入門し、弥五八の工銘で金工を学んでいる。
安親が最初に接したのは正阿弥派の技術であった。ところが安親の師である珍久は、江戸に上り、風景においても人物描写においても独特の風情ある作風で人気を得ていた奈良派の技術をも学んできたのである。安親は、師が携えてきた新たな技術や作風に触れ、あるいはまた、江戸の様子をも聞くことによって心を騒がせたに違いない。
表題の鐔は正阿弥風ではなく、尾張や金山風でもなく、肥後風でもない、同時代では類型を探し出し得ない特殊な造り込み。鉄地は折り返し鍛錬を施したもので、透かしの内側や耳に幾重にも層状の鍛え肌が現れている。表裏の笹葉の表面にも葉脈のように鍛え肌が綺麗に現れており、その様子から意図して肌を際立たせたことが想像されよう。
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非売品
羅漢図鐔 銘 山城国伏見住金家
Kaneie
鍛え強い鋼を薄手の竪丸形に仕立て、耳を打ち返して空間を切り取り、地鉄は鍛えた鎚の痕跡が明瞭で、修行僧の闊歩する荒野を想わせる肌合い。羅漢の身体は同じ鉄を用いた共鉄象嵌、眼窩が窪んで厳しい表情を示す顔と仏舎利は銀の高彫象嵌、要所に金の点象嵌を加えている。裏面は金家に間々みられる京近郊と思しき山水風景図で、釣り人もまた共鉄象嵌。波は毛彫。ゆったりと連なる山並みは、その端が穏やかに霞み込んでおり、これも金家の特徴である。
羅漢の目線は、自らが前にささげている仏舎利を通して遥か遠くに結ばれているようだ。数十年の長きに亘って修行を重ねてもなお、師と仰ぐ釈迦は見えてこない。民衆から羅漢と呼ばれて敬愛されてはいても、釈迦と同じ観念世界には永遠に到達できないのではないだろうか、と苦悩する表情が窺いとれるのである。
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-参考品-
心の駒図鐔 銘 資次
Suketsugu
精良で緻密な地鉄の大振りな鐔。片切彫りで表された強い風の中、蜘蛛の巣に馬がかかって暴れもがいている不思議な図である。肉感豊かに躍動感あふれる馬と細くピンと張って緊張感に満ちた金色絵の蜘蛛の巣。大きくとった余白がこの不思議な図をより深く印象付ける。
自分を捨てた男を恨んで悪鬼となった女の悲しくも恐ろしい物語、謡曲『鉄輪』。盗みに入った家の庭で蜘蛛の巣に搦めとられた男が得意の連歌で許される狂言『蜘盗人』。いずれも「蜘蛛の巣に荒れたる駒は繋ぐとも二道かくる人は頼まじ(たとえ蜘蛛の巣に荒れた駒を繋ぎとめることが出来たとしても浮気男の心をつなぎとめることは出来ない)」という古歌が使われている。また、『徒然草』には葵祭の行進でこの古歌に因んだ衣装が出てくる。人類の永遠の課題ではあるが、よほど馴染み深い歌だったのであろう。資次は江戸後期の肥後明珎派の鐔工。
特別保存
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春駒図鐔 銘 宗與(花押)
Soyo (the 2nd generation)
横谷宗与(二代)は初代宗与に学んで独立した宗寿の次男で元禄十三年の生まれ。兄に初代英精がおり、早くから金工の技術を身に付け技量が高く、正徳五年、十六歳の時に師宗珉の養子に迎えられている。享保十八年に宗珉が没すると横谷宗家の四代目を継いでいる。宗珉の片腕として鏨使いに心血を注ぎ、その重責を担ったものであろう、横谷の作風を踏襲して師に紛れる作品を遺している。加納夏雄は「…鑚行きは宗珉に似て中々に名手なりと云うべし、而して稍温和なる趣ある方なり、而して其作品には宗珉と見誤れる物もあり、又純然たる宗與の作と鑑定せらるるものありて作柄一定せざる所あり、是鑑評家の一考を煩はすべき点ならん」と高く評価していると同時に、師とは異なる作風をも試みていたことを指摘している。春駒と題されているこの鐔の図は、古くは邪気を祓うために宮中紫宸殿において正月七日に行われた白馬節会を想定して作品化したもの。
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