登龍門図鍔(鐔) 銘 松翠軒美章寫 玉川図
Yoshiaki
鯉が滝を登り切れば龍になるという伝説を表した「登龍門図」は立身出世を祈念する好画題。(萩谷勝平にも同図がある。)大振りの鉄地木瓜形は耳に向かって肉を落とし、銀覆輪が品良く画面を際立たせる。激しく立ち上がる波は生き物のような流動性を見せる高彫。必死の形相で滝に挑む鯉。鱗は密実で、背鰭は繊細に翻る。丸太を重ねた橋は、甲鋤彫りを思わせる細かな鏨運びが見られ、雲は片切彫と毛彫の併用。広狭、深浅、強弱がはっきりとしたメリハリのある彫法で迫力ある場面を描いている。雲は低く垂れ込め、川面は波立ち、雨が激しく打ち付ける。この川を遡り、次第に狭く激しくなる流れに逆らい、ついには滝を登りきる。鯉は龍となって生まれ故郷の川に 恵みの雨をもたらせたのかもしれない。水戸玉川派の美章には一柳友善との合作の龍虎図鐔や仙人図小柄がある。
特別保存
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飛燕図鐔 銘 天台山麓園部芳英(花押)
Yoshihide
園部芳英は芳継の子で文化三年の生まれ。精巧緻密な高彫表現を得意とした。この鐔は、春の暖かい風を切り裂いて飛翔する燕を彫り描くことで、どこまでも青く清らかに澄む空気を表現した鐔。涼やかに流れる小川と、そのほとりに咲く蒲公英、土筆、遠く広がって天に溶け込む大地も、総てが空気のありようを 演出する素材。陽の光を大地に届けてくれるのが空気。円周状に打ち施した魚子地も燕や草原に生命感を与えている。赤銅の黒、銀の白、目玉の金、頬の素銅とわずかの色金ながら、写実的高彫描写された燕は細部まで精密。小川の流れは高彫で、切羽台のみ銀の平象嵌。総ての彫刻技法が優れて美しい。
特別保存
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左右大透枯れ木象嵌鍔(鐔)無銘 伝又七
Den-Matashichi
林又七は言わずと知れた肥後金工林派の祖。作品は精巧緻密でありながら、堅苦しさは微塵もなく、気韻生動。本作は、十 字木瓜形の鉄地を、切羽台を挟んで左右を大きく透かし、枯れ木象嵌を施したもの。鍛えの良い地鉄の、艶と深みのある錆色の中に槌目の躍動感が混在する様が面白い。左右の大透も十字木瓜の切込みの配分もきっちりと左右対称にはせず、ほんの少しずらしている。その加減が絶妙で、これを計算しているところが名人たる所以であろう。左右の大透は遠見の松であろうか。あるかなきかに面取りされた透の際は溶けてしまいそうな、なんとも柔らかな質感。ルーペを使わず、ぼんやり地鉄を眺めていると、幾筋もの消え入りそうな細い線状の鍛え地の流れが見える。これがなんとも楽しい。枯れ木象嵌は細かく不規則に屈曲し、枝分かれして大透の外側を廻る。これらの小さな現象の重なりが本来動くはずのない鉄の塊に命を吹き込んでいるのかもしれない。
特別保存
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窓桐透鍔(鐔) 銘 忠重作
Tadashige(Akasaka school)
鍛えの良い鉄地は大振りで厚みがあり、耳に向かって僅かに肉を落とす。黒味の強い錆色は落ち着きのある艶を湛え、耳に縞状の鍛えの跡を見せる。禅の思想から発展し、寺院建築や茶室に用いれた円窓。鐔を円窓に見立て、風景を切り取ったこの図は西垣勘四郎が得意としたもので、赤坂鐔工にも踏襲されている。軸をずらした桟を異なる太さで交差させ、画面に変化を与えている。力強い直線に柔らかで有機的な桐の曲線が好対照となり、硬軟絶妙なバランス感覚の実に洒落た作である。忠重は五代忠時の門人。赤坂鐔工の中で四代忠時以降最も技量優れ、作風も幅広く、一門の繁栄に大きな貢献をした。長寿であり、作品も多いが在銘作は意外に少なく貴重である。
特別保存
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蕗葉に蜂図鍔(鐔)銘 出羽秋田住正阿弥傳七(伝七)
Denshichi
秋田正阿弥の鐔といえば誰しも先ず蕗葉透と倶利彫(ぐりぼり)を思い浮かべるのではないか。秋田正阿弥の始祖傳兵衛によって考案された蕗葉透鐔は葉の表を赤銅、裏を朧銀の昼夜造とした大胆な意匠と緻密で詳細な描写の傑作である。秋田名物の蕗は葉の直径が1.5メートル、茎の丈は長いもので2メートルにもなるという。蕗は音が富貴に通じ縁起が良い。さて、本作はどうであろう。朧銀地と赤銅地の葉を組み合わせ、葉の形なりの変り形である。朧銀地の葉は磨地と石目地仕上げで表裏を描き分け、茎と葉で形作った空間を小柄笄櫃とした洒落た造りである。葉脈は金象嵌。層状になった虫喰い跡が面白い。葉に抱き込まれるように一匹の蜂が高彫されている。摺りへがし風の金象嵌色絵が古調を帯び、翅においては透明感を演出している。ところで、これは本当に蕗であろうか。蓮の可能性はないのか。蓮の別名は「はちす」である。蜂をかけた言葉遊びかもしれない。また、蕗だとしたら、蕗の中国名と漢方の生薬名は「蜂斗菜」というのだそうだ。この名が江戸時代どれほど浸透していたか定かではないが、どちらの葉だとしても蜂に関係があるのは偶然か。傳七に聞いてみたいものだ。正阿弥傳七は伝兵衛、伝内に続く秋田正阿弥派の三代目で、初二代同様秋田藩主佐竹家の藩工として活躍した。江戸へ出府し、晩年の安親の弟子となり四年間修業してもいる。技量、感性共に優れ、「草廬三顧図鐔」を筆頭に数々の傑作を遺している。本作も見れば見るほど味わい深い鐔である。
特別保存
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野晒図鍔 無銘 甚吾
Jingo
人は死ねば皆髑髏となる。その無常観を表現した作。志水甚(じん)吾(ご)は肥後金工を代表する名流。素朴な鉄地や真鍮地、素銅地を巧みに処理し、個性的な構成で主題の本質に迫った。この鐔は、深みのある色合いの素(す)銅(あか)地を肉厚に地造りし、地面を中低に仕立て、高彫と毛彫に金の露(つゆ)象嵌(ぞうがん)を加えて枯れた野の様子を、赤(しゃく)銅(どう)の高彫象嵌で草の陰に朽ち果てて忘れられた人骨を彫り表わしている。印象的なのは裏面の銀平(ひら)象嵌(ぞうがん)による三日月。誰にも気づかれることなく、また葬られるわけでもなく、ただ野に屍を晒しているだけ。それを知るのは月のみか…。
特別保存刀装具鑑定書(甚吾)
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南蛮船図鍔(鐔) 銘 永井弁己 宝十二年八彫
Benki
永井弁己とは誰であろうか。今のところ全く情報が無い。銘文の「宝十二年八彫」は、おそらく製作年のことであろう。宝暦十二年(1762年)、十八世紀半ばである。徐々にオランダとの貿易は衰退していったのだが、八代将軍吉宗がキリスト教関係以外の洋書の輸入を緩和したので、日本に学術洋書が輸入されることとなった。杉田玄白が『解体新書』を発行したのが安永3年(1774年)、本作の製作年から8年後のことである。この鐔は、表側と裏側で西洋と東洋、異なる世界を描いている。風を受けて帆をいっぱいに張り進む大きな船は新しい知識や文明を運ぶもの。対して静かな入り江と四阿は東洋の思想や理想とする世界を象徴している。興味深いのは波の表現である。手前の波を太く強い線で、奥に行くにしたがって細く浅い線となる。このような遠近の表現を刀装具ではあまり実見したことがない。小社蔵の庄内藩工横谷宗寿の手になる業平東下り図大小鐔くらいであろうか。大きく変わりゆく時代の前触れを感じさせる作品である。
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二つ銀杏紋散図鍔(鐔) 無銘 太刀師
Tachishi
手に持つと驚くほどずっしりと重い。横に張った安定感のある厚手の山銅地は、切羽台に無数の荒々しい鏨の跡が見てとれる。金色絵の魚子地から浮かび上がるのは雪輪のようにも花のようにも見えるが、銀杏の葉を二枚組み合わせたもの。神社の御神木や街路樹として親しまれている銀杏だが、文献に登場するのは十五世紀半ばに編纂された国語辞典『下学集』が今のところ最古である。紋章として成立したのも同時代くらいであろうか。(因みに徳川家康の父の廟所に剣銀杏紋が付けられていることから、銀杏紋は徳川家に縁があるという説がある。)山銅地高彫の銀杏紋は、上下左右に配したもののみを銀色絵としている。猪の目透の小縁と耳にも銀色絵を施し、金、銀、山銅の色合いが不思議な明るさで見事に調和している。古美濃の鐔などによくみられる小柄笄櫃の形状、太刀鐔としての表側の方が僅かにこんもりと盛り上がっている様や幅広の木瓜形も時代の上がる鐔の特徴を表している。
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大森彦七図鍔(鐔)無銘 浜野
Hamano
大森彦七は伊予国の生まれ。南北朝の戦いで北朝方につき、湊川の戦いで楠木正成を敗死に追いやった。『太平記』には彼が正成の怨霊に悩まされたという逸話があり、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎などに取り上げられている。本作もその一つ。湊川の戦いに勝利し恩賞を得た彦七がその祝いに猿楽を催す。会場へ向かう山道で若く美しい女に出会った彦七は、難路に悩んでいるのを見かねて背負って瀬を渡ろうとするが、美女は恐ろしい鬼に変じ、彦七に襲い掛かってくる。逞しい足を踏ん張って川面を見つめる彦七は背負っているのが実は鬼女だと気づいたのだろう。鬼の手は彦七の肩をがっちり掴み、長い爪が生えた足は太刀の内側に入っている。不穏な空気と緊張感が漲る空間である。浜野派が得意とする、図の輪郭線を片切彫とし、その内側を薄肉に鋤出す技法を駆使して抑揚のある変化に富んだ表現を完成させている。
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梅花散大学形鐔 銘 甫矯花押
Masatada
大学形と称された安親の散梅図鐔。松平大学頭頼貞に召し抱えられ、その豪放な気性の影響を大いに受けたのであろう、雄渾にして格調高い、壮年期安親の代表作である。本作はその安親の散梅図を念頭において製作された堂々たる大学形の鐔。地鉄から造った鍛えの良い地はすべすべと滑らかな手触りで心地良い。そこに浮かび上がるように散らされた梅の花は、柔らかくふっくらとして優し気な様子。豪胆な造り込みの中で繊細さと可憐さが際立つ。一体どんな豪刀に装着されたのであろうか。これだけの大きさと重さがあるとなると鐔止めの孔も伊達ではないだろう。鉄地鋤出彫りを得意とした甫矯(まさただ )は橘窓子と号し、大沢因幡とも銘する。信州松本出身で江戸の伊藤家に学び京都でも修業した。
特別保存
250,000
菊水花筏図鍔(鐔) 銘 越府之住善陳作 延宝三暦 初冬作
Yoshinobu
明珍、春田、長曽根など優れた甲冑工を輩出した越前国。善陳(よしのぶ)は明珍出身と伝えている。鍛えの良い地鉄は微細な石目地仕上げの竪丸形で耳は土手耳仕立て。場面展開が大和絵のようであり、その透し際の処理も洗練されている。周囲を軽く鋤いて紋様を際立たせ、桜花は陰と陽。桜 の小透が甲冑師鐔を彷彿とさせるが、形は引き締まって端麗。肉置き豊かに膨らみ絞られる水の流れは流麗。ふっくらと花弁が際立つ菊花、中心を低く明確に葉脈を毛彫りした菊葉。文様風であると同時に彫金なればこその実体感がある。春の桜に秋の菊。単純に考えれば春秋を代表する美の競演「錦繍文」。少しひねくれて深読みすると不老長寿の象徴菊水伝説と浄土の象徴でもある吉野川の花筏。善陳は何を思っていたのだろうか。『刀装小道具講座』には、「延宝三年の年紀のあるものがあるというがこれは未見である」との記述があるが、本作が正にその年紀作である。「延宝三暦 初冬作 越府住善陳作」と鮮明に刻銘された本作は作者の特別な思いが伝わりくる貴重な一鐔である。
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山水図鍔(鐔) 銘 長州萩住友久作
Tomohisa
(注)長州鐔には山水図が多い。その源は室町時代の画聖雪舟にある。周防、長門、筑前、豊前、肥前を領有した守護大名大内氏の庇護により明国で水墨画を学んだ雪舟。帰国後は山口天花の雲谷庵に落ち着き「山水長巻」をはじめとする傑作を描いた。その画風は、西国随一の大名毛利輝元から雪舟流の復興を命じられた原治兵衛直治(後の雲谷等顔)に継承され雲谷派として幕末まで続いた。
どんな拵えにも合うと人気を博し、長州藩の経済を支える特産品でもあった鐔。そのほとんどが鉄製で鍛えの良い鉄味と艶のある深い錆色が身上だが、稀に本作のような赤銅地による入念作がある。青味を帯びた上質な赤銅磨地に展開するのは奇岩を背景とし、人々の営みを水辺に描いた山水図(注)。鐔としては大振りだが、手のひらに収まる大きさである。その中になんと豊かな世界があることか。作中の人物になってこの世界を探訪してほしい。空間にしっかりとした奥行きが感じられ、特に岸辺の描写が見事である。興味を惹かれるのは櫃穴脇にある奇岩である。大きな空洞があり、そこから湖面に立つ細波が見える。ここまではっきりと大きくはないがこれは雪舟の「山水長巻」にも描かれている。余談だが洞窟や岩に空いた穴、木の洞などが聖なる世界、または異界の入り口であるとする思想や宗教が中国や琉球、果てはケルトにもあったことが想起される。画面のそこここに雪舟の影響がうかがえる。強弱、濃淡、掠れ、滲み。筆によるそれを鏨で表現しようと技の限りを尽くした友久畢生の特別作である。
特別保存
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百事如意図鍔(鐔) 銘 辛未冬月 洛北鷹峰居 幽斎安達雕 □□書 〔金印〕
Yusai
百合(若しくは百合根)と柿の実、霊芝を寄せたものを「百事如意」と呼び、全てが意のままであることを意味する。百合と柿の文字と音を「百事」に通わせ、霊芝は形が如意棒に似ていることからの取り合わせ。富岡鉄斎、滝和亭、椿椿山ら文人画家、南画家に も好まれた画題である。金工は概して多芸、多趣味で教養のある人が多い。安達幽斎も例に漏れず、書画を得意とし、謡曲、琵琶、弓術を嗜んだ。すべすべとした鉄磨地は一乗派特有の打ち返し耳で竪丸形に造り込まれ、耳そのものは中央を窪ませすっきりとした印象。表側に写実的な表現による高彫据紋象嵌の柿、百合根、霊芝が配されている。金銀素銅赤銅による彩が鮮やか。裏側は「百事如意」の文字が彫られている。安達幽斎は和田一真の高弟。
特別保存
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遠山松透鍔(鐔)無銘 二子山
Futagoyama
可愛らしい茸のような小透( 蛇足であるが総数十三個)は、松である。これは「遠山松」といわれ、剣を構えた時に一本一本の木にとらわれないで山の全体を遠くから見るように相手を見るという柳生新陰流の教えを表す。鍛えの良い鉄地はほぼ真丸形。切羽台より耳の方が厚くなる中低の造り込み。小肉の付いた耳には所々小粒の鉄骨が表れている。柳生は尾張や大野、三代の桜山吉など、当時の尾張鐔工に鐔を作らせたと言われている。二子山と極められた本作。二子山岩田則亮は技量高く、写し物も得意とした。柳生写しも製作し、高い評価を得ている。本作も本歌に迫る作風を呈した優品である。
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波龍図鐔 銘 藻柄子入道宗典製 江州彦根住
Souten
手に持てばずっしりとした重みを感じる赤銅地は耳を含め全面に高低変化に富んだ波を彫り込んでいる。 金銀露象嵌の飛沫を撒き散らし、波頭が鬩ぎ合う大海原を悠然と龍が渡る。紋高く引き締まった体、鋭い爪、海をも飲み込む勢いで大きく開けられた口からは大気を揺るがすような咆哮が聞こえそうである。
製作当時から現在まで人気の高い宗典の作には大まかに分けて二様ある。最も多いのは鉄地肉彫地透に華やかな色絵象嵌を施し、パノラマ的視野で情景を彫描いたものである。
もう一方は板鐔に立体的かつ詳細な高彫象嵌色絵を展開するもので、この手のものは作品が少なく、また良作が多い。本作のような赤銅地のものは更に希少で、恐らくは依頼を受けて製作したものであろう、迫力満点の入念作である。
特別保存
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史記 鴻門の会・樊噲図鍔(鐔) 印銘 常重
Tsuneshige(Nara school)
常重は奈良重次の門人で奈良利重の孫弟子。真鍮石目地撫角形の鐔に和漢の人物図を彫るを得意とした。鴻門の会で謀殺されようとしている劉邦を助け出そうと駆けつける樊噲を描いた本作が正に常重の真骨頂である。明るい真鍮地の全面に細かく石目を打ち施し、帳には雲龍を片切彫りと毛彫で描く。盾を抱きかかえて駆け付けた樊噲は耳から裏面にかけても展開する緻密な描写の鋤出高彫。秀でた額の奥の眼光鋭い眼差し、高い頬とそこからそよぐように広がる髭は繊細な毛彫。奥行きのある高彫は要所に金銀の色絵を配し、衣や毛沓それぞれの質感を的確に表している。単なる情景描写ではなく、誠実で豪胆な樊噲の人柄をも活き活きと彫描いている。同作中の傑出作と言い得る。
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文様(七宝繋文)透鍔(鐔)
Ko-tosho
円や楕円を上下左右、四方に重ねて作った文様を七宝繋文という。元は四方繋と呼ばれたものが仏教の七宝にかけて七宝繋文になったという説がある。四方に限りなく広がっていくことから繁栄を意味し、吉祥文として喜ばれ装束や器物に用いられた。その七宝文の一部を小透とした本作。全てを克明に表すのではなく、一部のみを見せて鑑賞者の想像力を求める心憎い手法である。俗な言い方をすれば「チラリズムの美学」であろうか。叩き締められ陰影深く表情豊かな地鉄は色合い黒々として鍛え良く、耳に向かってやや肉を落とす。視覚と触覚で実用の時代の厳しさと装飾への芽生えを感じたい。室町時代に使用されたそのままの無櫃の作で、まさに一刀一鐔を物語るものであろう。
特別保存
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瓢朝顔図鐔 銘 信家
Nobuie
桃山三名人の一人に数えられている信家(のぶいえ)は、永禄から天正年間の尾張清洲で活躍した信家以降複数人の存在が考察されているが、戦国時代という背景から活動の記録が極めて少ない。このように在銘作が遺されている割りに謎めいた存在である点も魅力の一つで、江戸時代から既に研究の対象とされている。作行は、切羽台に比較して耳際の厚い頑強な鉄地の仕立てで、文様の打ち込みや毛彫、筋彫などを組み合わせた簡潔ながら複雑な描法。図柄は葡萄や瓢箪、朝顔など蔓様の植物を唐草風に鐔全面に施したものが多く、また、鋤彫により御題目文字などを加えた作もある。これら毛彫鋤彫が、錆び色黒く光沢のある地鉄に現れた鉄骨(てっこつ)など素材そのものの働きと複合し、地相に動感を生み出しているところが見どころ。特に初期の作には室町時代の甲冑師鐔にも通じる素朴な美観が備わっており、時代の降った写し物にはない景色が愛鐔家垂涎の的となっている。
この鐔が典型。銘は所謂放れ銘。古くから戦国時代の実用的な拵に合うと評価されているようにバランス良く、強い衝撃にも耐え得るよう耳際を厚くした構造も覇気に富んでいる。鍛えた鎚の痕跡を残す地面も、色合い黒くねっとりとした渋い光沢で一段と強味が感じられる。耳の所々に現れているさらに色の黒い鉄骨には山吉兵の鐔に見られる小さな炭籠りを想わせる働きも窺え、地の抑揚に能動的変化を与えている。図柄は夏の陽を受けて無限に蔓を延ばして行くかのような、永遠の生命を暗示する瓢箪と朝顔。この両者は信家を説明する上で外すことのできない図で、ここでも地肌に溶け込むような素朴な毛彫の組み合わせとされている。
特別保存
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大根図鍔(鐔) 銘 国永
Kuninaga
大振りでほぼ真丸形の堂々とした鐔である。独特の杢目鍛えが地模様となり、鋤き残した土手耳にもはっきりと表れている。杢目鍛えの流れに呼応するように表裏相対するよう配された大根。浅い鋤出彫りで葉脈やひげ根を表し、柔らかく瑞々しい様子が伝わりくる。この鐔を更に印象深く面白いものにしているのが大小様々に散らされた円の透かしである。このポップな感覚はどこから来たのだろう。国永に関しては、詳らかでない部分も多いが、『刀装金工辞典』によると、「高木氏。幕府直参の武士でその慰作。杢目鍛えの鉄鐔を多く作る。」という記述がある。また、日本美術刀剣保存協会和歌山県支部発行の『紀 州の刀装具』では、紀州藩の史書『南紀徳川史』に「天明(1781年~1788年)頃に高木十兵衛を名乗る藩工が紀州で活躍したことが記録として残っており、現に国永には紀州住国永や高木国永といった居住地や高木姓を刻した鐔も現存する。」とある。
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籠目透鍔(鐔) 無銘 古正阿弥
Ko-Shoami
竹籠の網目模様を意匠化した籠目文。正三角形を逆向きに重ねた六芒星は、陰と陽、相対するものの調和を意味し、邪気を祓うと信じられてきた。その六芒星の連続模様が籠目文である。古来より衣服や器 物の文様として採り入れられてきた。この鐔は全面に細かな籠目模様が透かされ、しかも小柄・笄櫃は五芒星を暗示する五角形である。陰陽道では五芒星もまた魔除の呪符として用いられた。手に馴染む質感で深い錆色を呈した鍛えの良い地鉄は切込みの浅い木瓜形で、耳に向かってなだらかに肉を落とす。変わった形の櫃穴と共に時代の上がる鐔の様相を表し、何とも言えない魅力に溢れている。
特別保存
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木曽義仲願文図鍔(鐔) 無銘 古金工
Ko-kinko
寿永二年(1183年)五月、義仲軍は、越中加賀国の国境砺波山にて圧倒的な兵力を誇る平維盛軍と対峙し、勝利する。世に言う「倶利伽羅峠の戦い」である。この戦を前にして義仲は戦勝祈願の願文を軍師の覚明に起草させ、埴生八幡神社に奉納した。本作は正にその場面を彫り描いている。漆黒の赤銅地に整然と並ぶのは古風な縦魚子。時代の上がる絵風鐔に共通する表裏図変わりの様式と相俟って一層古色を感じさせる。耳は覆輪ではなく地を鋤下げた鋤残耳である。扇を手にし、床几に腰掛け、長い太刀を佩いた義仲。鳥居の前で薙刀を置き、跪いて願文を開く武者。高彫は紋高く立体的で、展開する物語の間に配置された松や水辺は目にも鮮やかな金色絵。一方裏側は、主題を下方に置き、大きく空間を取っている。春の夜、三日月の下、波頭の立つ荒れた川を大木に乗って漕ぎ渡る人物がいる。良く日焼けした体は素銅で表され、黒色化した銀の月、楓と松、迫りくる波の金色に囲まれ常人とは思えない雰囲気を醸し出している。この図は長伯房図という。狩野元信の下絵を用いて後藤宗家四代光乗が製作した長伯房図笄、後藤宗家十二代光理の折紙が附された紋光乗 光理花押の費長坊・長伯房図小柄が有名で、ご存知の方も多いと思うが、珍しい上に謎の多い画題である。鶴に乗った人物が費長坊(費張、飛張ともいう)で、仙人列伝にも記載があり、江戸時代には見立絵にも描かれている。一方、長伯房は画題を説明する資料を今のところ発見できないでいる。どんな人物なのだろうか。そもそも人なのか。何故舟ではなく枝のついたままの木を漕いでいるのだろうか。それにしても、金家の作をはじめ、絵風の古い鐔は何故表裏図変わりのものが多いのだろう。これはあくまで仮説なのだが、表の画題とは異なる中国故事や山水風景を採り入れるのが、唐物が珍重された時代の約束事だったのではないか。表裏共に珍しい図であり、入念な作である。
特別保存
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芦雁透鍔(鐔) 銘 忠重作
Tadashige (Akasaka school)
肌鍛えと呼称される、鍛えた鉄の様子が表出された地造の技法がある。作為的な部分と偶然による思いがけない効果が生まれ、一種独特のニュアンスを表現に加えることができる。忠重もままこれを用いた。大振りで厚手、重量感のある鉄地は鍛え良く、細かな縞状の線が耳を廻り、やがて鐔の形なりに流れる。大気を表すかのような鍛えの線は、同時に額縁のように描かれた世界を強調する。肌鍛えの線と同調し、互いを追っているかのように展開する雁と芦。対象をそれとわかるぎりぎりまで簡潔に意匠化した陰透は洗練された彫口ですっきりとしている。茎穴の周囲には特徴のある寄鏨がありここも忠重の作品の見どころである。
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