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平家物語 一ノ谷合戦 熊谷直実に平敦盛図 三所物 銘 紋顕乗 光孝(花押)
kenjo(7th generation of Goto school)
Tale of the Heike, Battle of Ichinotani, Kumagai Naozane and Taira no Atsumori mitokoro mono
江戸初期 山城国京都
小柄・笄 赤銅魚子地高彫色絵裏板金哺
小柄 長さ 97.5㍉ 幅 4.6㍉
笄 長さ 212.6㍉ 幅 12.7㍉
目貫 赤銅地容彫色絵 表 24.8㍉ 裏 27㍉
附 寛政九年後藤光守折 紙
重要
-
円(税込)
音声解説
00:00 / 01:04
三所物
2237
No.
平家の御曹司無官大夫敦盛と源氏の熊谷次郎直実の、一ノ谷の合戦でのやり取りを題材に得た三所物。『平家物語』の名場面である。極上の赤銅魚子地に後藤家らしい的確な彫技と色絵で、扇を掲げて呼び掛ける熊谷と、海原に進ませた馬を止めて振り返る敦盛の姿が活写されている。作者は元和三年に後藤宗家七代を継いだ名手顕乗で、十三代光孝により極められて小柄と笄に裏彫が施され、同十四代光守の代金二百五十貫の折紙が付されている。赤銅の漆黒に金が映え、大身の武家の道具に相応しい貫録ある逸品となっている。
一ノ谷の合戦は寿永三年二月に繰り広げられた、源平の未来を左右する大きな動きであった。前年七月、平家は源義仲の入京を前に、三種の神器を戴く幼帝安徳と共に都を離れ、西国へ逃れている。その後、讃岐国屋島に拠点を構え、棟梁宗盛、知将知盛、勇将重衡を中心に体制を整え、この年の正月には摂津国福原に入っている。故清盛が、かつて遷都を夢見た福原は南方に海、北方に急峻な山襞を備える要害の地であり、平家は東の生田の森と西の一ノ谷に木戸を構え、源軍を迎撃し、その勢いで京を奪還せんと意気盛んであった。だが源範頼軍五万六千余騎が東から、義経軍二万余騎が山伝いに西から攻め込んだことにより、殊に義経の鵯越の坂落としで平家は総崩れとなり、大敗を喫したのであった。
さて、この三所物の主題である敦盛は、阿鼻叫喚の一ノ谷から屋島へ逃れんと沖の船を目指し海へと駒を進めていた。鶴の刺繡の直垂を着し、萌黄色絲威の鎧に鍬形を打った兜を被り、黄金造の太刀を佩き、重藤の弓を手に金覆輪の鞍の葦毛の馬に跨った堂々の武者姿である。これに目を止めた熊谷は「敵にうしろをみせさせ給うものかな。かへさせ給へ」と呼び掛け、逡巡の末に引き返した敦盛を組み伏せ、首を掻き取ろうとした。だが、熊谷はその兜を剥いで驚愕した。相手は我が子小次郎直家十六歳と同年配の若者だったのである。助命するか否か葛藤の末、熊谷は泣きながら首を取った。最期まで名乗らなかった若い公達だったが、身に着けていた笛から清盛の弟経盛の子敦盛十七歳で、笛は鳥羽院から祖父忠盛が拝領した銘笛小枝と判明する。敦盛の風雅と儚い生涯を思い、義経等源氏諸将は涙し、武士たる身の非情さに熊谷は出家の思いを強くしたのであった。
敦盛を打ち取る大金星をあげた熊谷だったが、その後の運命は過酷であった。誇り高き勇者熊谷は、治承四年十一月四日の常陸金砂城の佐竹秀義攻めの際に抜群の功績をあげて頼朝から直々に褒められ、武州熊谷郷の領有を認知され、一ノ谷でも目覚ましい活躍ぶりであったが、建久三年十月二十五日の久下直光との境界訴訟では、本来自身に理があるにもかかわらず、うまく抗弁できずに敗訴して激昂。証拠の文書類を投げ捨て、自身の髻を切って法然門の僧(蓮生)となってしまった。かくして一騎当千の兵熊谷次郎直実の生涯は行き詰まってしまうのである。
平時ならば決して交叉しなかった敦盛と熊谷直実の生涯は、まさしく「諸行無常」であり、「もののあはれ」の様相を呈している。伝承は後々の人々の心を激しく揺さぶり、室町時代の世阿弥をして謡曲「敦盛」を創作せしめ、江戸期には院の御落胤敦盛を救うため熊谷が我が子を身代わりにする歌舞伎十八番『一谷嫩軍記』が生み出されて上演され、観客の涙を誘った。表題の顕乗の三所物の注文主も、敦盛と熊谷の美しくも壮絶な物語に、激しく心打たれた一人であったに違いない。
注①…_最近の研究で鵯越は義経の別動隊の摂津源氏多田行綱の所業であった事が明らかにされている。
注②…_『平家物語』では剛の熊谷に柔弱な敦盛という対比だが、『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』では、敦盛は熊谷と懸命に戦い、首を掻かんと覗き込んだ熊谷に微笑み、清盛の弟経盛の子敦盛と名乗っており、熊谷は気丈にして堂々たる態度に「御心も猛人(たけきひと)」と感心している(髙橋昌明『平家の群像』参照)。
注③…直実は情に厚い人物だったことがわかる。
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