Copy right Ginza Choshuya

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​ 日本刀販売専門店銀座長州屋所蔵の短刀の商品案内ページです。ご興味のある作品がございましたら、お気軽にお知らせください。

Fuyuhiro

 冬広は室町中期に相模国から若狭国へ移住した次広の子に始まる名跡で、同銘は伯耆や雲州においても展開、活躍している。その中でも永禄頃の藤左衛門尉冬広は技量の高さで知られ、毛利氏や尼子氏らの強豪と渡り合った三村元親の招きに応え、備中松山城下にても打ち、武将好みの鮮烈な作を遺している。殊に、相州伝に備前伝を採り入れた作に挑んで独風を示している点は興味深い。

冬広

Hiroyuki

 平安城弘幸は堀川国広の門人で、はじめ弘幸と銘し、のちに丹後大掾を受領して広幸と改銘。さらに後に丹後守に転任したと伝える。慶長十三年の年紀作が数振り遺されていることから活躍の時代は明確であるが、師の相州振りとは作風を異にして緻密に詰んだ小板目肌に直刃を焼くを得意としていた。

弘幸

Hyakkoku

 武蔵国江戸麻布住。「山城守藤原百国入道一虎」。百国は武蔵太郎安国門で初め国重、後に一虎、入道して百国と号した。宝暦~明和頃に活躍。槍の名手として知られる。

百国

Kanesada

 室町時代後期。 美濃国。「濃州関住兼定」。之定「のさだ」の名称で親しまれる関の名工の初期作。明応年間に「疋定」から「之定」に改名。切れ味鋭く、孫六兼元と共に最上大業物に列せられた。烈の点の並びに之定の特徴が顕著に表れている。

兼定

Kanetomo

 戦国時代の関七流三阿弥派の兼友は、直江志津の子とも弟子とも伝える工に始まり、応永頃には関に移住して志津風の作風を専らとし、永禄から天正にかけて活躍。時代が下り江戸時代以降にも末流が栄えている。

兼友

Kiyomitsu

 長船清光家は、室町時代後期の備前長船鍛冶において祐定と二分する勢力と技術を保持して栄えた名流。中でも孫右衛門尉は、備前天神山城の城主浦上宗景の為に打った刀をはじめとする名品の数々を手掛けており、堂々とした造り込みと直刃に特徴がある。

清光

Kunishige

 備後より備中新見に移住した大月三郎左衛門国重の門流。新刀の水田に対し、古刀期の水田を古水田と称す。

国重

Masahiro

 江戸時代初期 肥前国。通称左伝次郎。寛永元年忠吉を襲名、同二年より正広の名を鍋島公より賜る。寛文五年行年五十九才没。銘文の「廣」の画数に見所あり、四代正広に比して横棒の画数が一本少なくなる。

正広

Masatsugu

 南都子守の住人金房兵衛尉政次には初、二代があり、共に興福寺の支院である宝蔵院で使われる宝蔵院流の十文字槍を鍛えて著名である。政次の頑強な造り込みは戦国武将の好みにも適合し、その腰間に備えられていた。

政次

Michitoshi

 江戸時代末期。陸奥国。「於江府岩野道俊作」「於東叡山麓岩野道俊以炭素鉄作」「岩野道俊作」「蟠龍斎道俊於東叡山麓」。南部藩の抱え工となり、蟠龍斎と称す。道寿とも銘した。嘉永年間(1848~1854)から明治初期にかけて活躍。硬軟の鉄を合わせて鍛えた肌物を得意とし「以炭素鉄作」「交餅鉄而鍛之」などと添銘した。江戸においても作刀。

道俊

Munetsugu

 「宗次」「奥州白川住宗次」「一専斎固山宗次造之」「固山宗次造之」他。固山惣兵衛家の出身。享和三年(1830)奥州白川の生れ。文政十三年から天保元年(1830)初めに江戸に出て、加藤綱俊に学ぶ。天保八年(1837)頃、伊勢国桑名藩抱え工となる。一文字や長船物に範をとった備前伝の他、兼元・兼定を想わせる美濃伝も得意とした。切れ味も抜群で、山田浅右衛門を初めとする試刀家の試し銘入りの刀も少なくない。

宗次

Sadaharu

 月山貞吉を師とする剣竜子貞晴は後に帝室技芸員に認定される兄弟弟子の月山貞一等と共に
文字通り最後の武士達の注文に応えて刀を鍛えた刀工。寸を控えて重ねを厚く仕立て、ふくら枯れた姿はすすどしく、棟は真に鍛えて、帽子は掃き掛けてさばき頭とするなど古作を強く意識した作域を示している。

貞晴

Sadakazu

 江戸時代末期。摂津国。「浪花月山貞一精鍛之」「浪華住月山雲龍子源貞一」。天保七年(1836)近江国生れ。七歳の時月山貞吉の養子となり十一歳から鍛冶修業に入る。嘉永四年十六歳の時に貞吉の作に瀧不動尊の彫刻を施すなど、作刀のみならず彫技にも比類なき才能を発揮。古作綾杉鍛えの再現にとどまらず、刀身彫刻を巧みとする近代月山鍛冶の技術的な基礎を築いた。明治時代には帝室技芸員を拝命する。

貞一

Sukemune

 室町時代後期。駿河国。「助宗作」「駿州嶋田住人助宗造」。五条久左衛門。永正年間(1504~1521)の島田義助の弟。義助、広助と並び、島田刀工の三傑の一人とされる。遺例に、永禄七年(1564)紀の武田安芸守注文打の刀がある。また、武田信玄所持と伝わり、のちに片桐且元(かつもと)が所持したおそらく造短刀を鍛えた。

助宗

Sukesada

 室町時代。備前国。室町時代の備前刀最大の門流にして、彦兵衛尉、源兵衛尉、与三左衛門尉祐定左衛門尉など数々の名工を擁して、戦国武将の求めに応じたのが祐定家。二重刃に豊かな沸が付いた貴重な剣の遺例。

祐定

Tadahiro

 近江大掾忠広は肥前国鍋島家に仕えた忠吉家の二代目。寛永十八年には近江大掾を受領。その作品は、姿、地鉄、焼刃総てが美しいだけでなく大業物に列せられているように斬れ味にも優れており、父の作と共に鍋島家から他国大名家への贈刀とされたほどに高い信頼を受けていた。

忠広

Tokikuni

 「刻国」「平安城住人刻国」。信濃大掾忠国同人。堀川国広の高弟出羽大掾国路の門人。寛永年間に因州池田家に乞われ鳥取城下に鍜治場を移し、寛永九年に忠国と改名。寛永十一年には信濃大掾を受領している。刻国と銘した期間が短いために同銘作は少ない。

刻国

Tsunatoshi

 加藤綱俊は加藤八郎と称し、生国が出羽国米沢。水心子正秀の門下で腕を磨き、米沢藩上杉家の抱工として江戸麻布飯倉片町の藩邸に鍛冶場を定めた。表題の大小一腰は、脇差が文化十三年紀で、この年綱俊は弱冠十九歳。師が得意として最も華やかな作風である津田助廣流の濤瀾乱刃に挑み、見事に成功している。

綱俊

Yoshisuke

 戦国時代、美濃を制する者は天下を制すといわれたが、東海道筋もまた天下を動かす要路であった。今川家に仕えた島田鍛冶は、主家だけでなく隣国甲斐の武田家、相模の北条家との微妙な力関係の上で高い信頼を得、質実剛健の言葉通りに長寸の刀や大身の槍を製作している。特に義助は、廣助、助宗と共に島田三名工に数えられる技量を備え、末流は江戸時代後期まで栄えている。

義助

Gassan

 出羽国寒河江郷谷地には大永二年紀の短刀があり、慈恩寺蔵の釣灯籠をも鍛造した俊吉を筆頭に、近則、正信、定真、寛安、安房、国宗など「月山」を冠する刀工が居住している。大きくうねる柾目に杢目を交えた、独特の綾杉鍛えで、古来人気が高い。

月山

Hiroyuki

 江戸時代前期。山城国。平安城弘幸は堀川国広門人と伝え、初銘を弘幸、後に広幸と改める(初銘を広幸とする異説もある)。慶長十三年紀の作が数点現存していることから活躍期は明瞭。作品の多くが、細直刃を主調とした渋い出来口となり、国広の華やかさとは対照的である点や茎仕立てに国広にはない独自色を見ること等から、古来国広門人説に疑問を持つ向きもあるなど謎多き刀工である。

弘幸

Kaneichiroku

 美濃国。天文頃。資料的に頗る珍しい「兼一六」の銘のある短刀。細かな檜垣鑢の掛けられた手置きの良い茎の細鑚の銘は「かねしち」とよむものか。或いは孫六と関係があるものか。

兼一六

Kanesada(Seki)

 室町時代後期。美濃国。兼貞は山城国達磨正光の末孫で濃州関の東に位置する蜂谷に居住した正光(室町時代中期文明頃)よりその名跡が引き継がれている。永正頃に活躍した兼貞はその三代目に当たり、初代兼定の門人であり、之定とは兄弟弟子となる。鍛冶屋千軒と謳われる関物の優秀性が遺憾なく発揮されている。

兼貞(関)

Kanetsune

 「濃州関住兼常」兼定、兼元に次いで名工の誉れ高き関の名工。信長が美濃を征した永禄十年頃には関鍛冶の総領職を務めた。竹中半兵衛の所持刀は天文年間の兼常。永禄年間・天正年間にも同銘あり。

兼常

Kiyomitsu

 戦国期の備前は播磨、備前、美作の守護赤松氏とその旧重臣浦上氏が対立、これに毛利氏と宇喜多氏らが関与し、一進一退の戦国絵巻が展開。棟梁五郎左衛門尉に率いられた清光一門は、播磨龍野城にあって浦上氏と対峙した赤松政秀の信頼を得、彼とその家中のために盛んに鎚を振るった。

清光

Kunitsugu(Uda)

 越中国に栄えた宇多派は、鎌倉時代末期に大和国宇陀郡より移住した国光が初祖。以降南北朝時代から室町時代末期にかけて、国次の他にも国房、国宗、国久、友久などが活躍している。

国次(宇多)

Masakage

 玉心斎正蔭は五島鯉介と称し、源清麿の高弟鈴木正雄に相州伝を学び、また水心子正秀の孫正次には備前伝を学んでいる。製作は幕末動乱の時代ながら、廃刀令を迎えて鎚を置かざるを得ず、遺されている作品は極めて少ない。

正蔭

Masatsune

 相模守政常は、大和千手院鍛冶の流れを汲む奈良太郎流の兼常の末。兼常家は孫六兼元や和泉守兼定に次ぐ有力鍛冶集団で、切れ味にも優れて戦国武将の高い信頼を得ていた名流。天文五年に生まれた佐助兼常は動乱の世を活躍の場と見定めて独立、後に清州の福島正則に仕えて工銘を政常と改め、天正二十年に相模守を受領。慶長十二年には隠居して嫡子に職を譲るも、二代目の急逝で復帰。この晩年の頃に入道銘を刻している。

政常

Moritsugu

 守次は備中国青江派の刀工。初代守次は平安時代後期に青江派を創始したと伝える刀工で、以来その名跡は脈々と引き継がれたと推考される。本作は南北朝延文に活躍した工の作。板目肌顕著に表れて、凛とした美しさが魅力的な作品。

守次

Munetsugu

 宮川宗継は源清麿の兄真雄の門人。慶応年間に筑前守を受領。兵学者で思想家の佐久間象山が仕えたことで知られる信濃松代藩真田家の抱工として激動の時代を生きたが、他の多くの刀工と同様に廃刀令により鎚を措くこととなった。それが故に遺されている作品は極めて少ない。

宗継

Sadaichi

 月山貞一刀匠は、祖父貞一や父貞勝の作刀技術を受け継ぎ、大正十四年十八歳にしてすでに《後鳥羽天皇七百年祭奉賀賛太刀》を製作するほどに高い技術を示している。大戦後の昭和二十四年には《伊勢神宮式年遷宮》の太刀を謹製(注)、家伝の刀身彫刻にも優れ、昭和三十一年の作刀技術発表会より優秀賞や特賞を連続受賞、昭和四十四年に正宗賞を受賞して無鑑査刀匠に認定され、昭和四十六年に重要無形文化財の指定を受ける。

貞一

Shigeyoshi

 京埋忠家は三条宗近の末裔と伝え、代々洛東の梅忠町に住して禁裏御用を勤め、室町時代には作刀、茎の磨上と象嵌施刻、刀身彫、彫金を以て足利将軍家に仕えた名門。埋忠明寿は本阿弥光悦とも交流した桃山期の美の巨人の一人で、重義はその門流。江戸初期の彦次郎と前期の七左衛門等が知られている。刀の遺例は極めて少ない。

重義

Sukenaga

 祐永は横山覚之介といい、奥元平門の父祐平に就いて鍛冶業を修め、文政十二年十二月に父の跡目を継ぎ、天保四年二月十三日に加賀介を受領。茎に朝臣号、菊紋、一文字を刻するを勅許されている。鎌倉期の備前一文字を想わせる腰反りの強い優美な姿に華麗な丁子乱刃を焼いた遺作はいずれも出来が優れ、誠心誠意の働きが賞されて、藩より帯刀を許され、長舩の大庄屋格に列せられた名士でもあった。

祐永

Sukesada

 祐定家は室町時代後期の備前国長船において優刀の数々を生み出した名流。中でも与三左衛門尉祐定はその活躍期が戦国動乱期に重なり、数多くの祐定同銘工を統べて職人集団としての真価を発揮。

祐定

Tadamitsu

 初代彦兵衛尉忠光の両刃造短刀。忠光は文明を盛期として長享、延徳の年紀作を遺している。直刃の名手として知られているが、鎌倉時代の互の目丁子を想わせる作風も熟しており、直刃に留まらぬ作域の広さを示し、また出来も優れている。

忠光

Toshihide

  眠龍子寿秀は天保二年の生れ。寿格-寿実-寿幸と続く浜部家の四代目で寿幸の高弟。師の没後、その子寿光の後見人として浜部家を預かり、御家伝統の微塵に詰んだ小板目肌に華やかな互の目丁子や引き締まった直刃を焼くを得意とした。

寿秀

Ujiyoshi

 室町時代永正頃。阿波国那賀郡海部。海部刀では室町幕府管領細川氏の重臣三好長慶所持と伝える「名物岩切海部」が夙に高い切れ味を誇って名高い。鎧に身を固めた武将の前差しとしたものであろう。海部刀中の極上作。

氏吉

Yoshitaka

 備前国。江戸時代後期ー明治。天保十三年。竹屋藤五郎の次男として生まれる。京都尾崎正隆に師事し、「隆」の一字を授かって義隆と銘す。作刀技術の高さに加え、彫物の名手としても名高い。不遇にも廃刀令によって廃業。大成していれば大慶直胤や月山貞一にも負けない名声を得ていたであろう。生気漲る地刃の出来、草の剣巻龍の見事さ、鎮国の刻印に刀工としての気概を感じる作。

義隆

Harumitsu

 室町時代後期。備前国。「備州長船春光作」。春光は備前正系にて右京亮勝光ー次郎左衛門尉勝光ー次郎兵衛尉治光ー春光 と続く名流の一翼を担った刀工。重ね二分三厘と寸法に比して厚い重ねが実戦での威力を物語っている。匂勝ちに小沸付き刃縁には明るい小足が入って、帽子は焼きが深く激しく乱れ込んで長く返るなど室町期の長船派の作風を良く示している。

春光

Hisayoshi

 新々刀の祖と賞される稀代の名工水心子正秀の高弟細川正義に師事し、沸の妙味を存分に発揮して「郷義弘に似たり」との評価を得た久義の鍛えた短刀。弟子にはかの坂本龍馬の実家の近傍で鞴を構えた左行秀がいる。刃境に砂流しを豊富に配した独特の刃文構成は郷を目標にした意欲作である。

久義

Kanekiyo

 大和国。鎌倉時代後期の初代手掻包永の子に始まる包清の工銘は、東大寺転害門辺りを拠点としていた同派の隆盛と共に受け継がれ、活躍は室町時代後期に及んでいる。手掻鍛冶は大和五派の中でも特に末葉が栄え、他国へ活躍の場を求めて移住した者もまた多い。これら手掻鍛冶の中でも南北朝以前の工を手掻、それ以降の工を末手掻と呼び分けている。

包清

Kanesaki

 兼先は室町時代の美濃国関の刀工。その優れた作刀技術を買われて、加賀、越中、近江、但馬、越後、越前等、全国の城下町に進出し繁栄している。兼先の現存する作品で最も古い作は永正六年己巳吉日紀の濃州関住兼先作の刀。

兼先

Kanetsune

 兼常は直刃に名作多しとの評がある室町時代の美濃の刀工。天正十二年には小牧、長久手の戦いに挑む家康の需で槍百筋を鍛えたと伝え、切れ味と威力に武将の信頼は殊に篤く、孫六兼元や兼定に匹敵する実力と知名度を誇った。

兼常

Kunimastu

 神奈川県厚木に鞴(ふいご)を構えた無鑑査刀匠広木弘邦刀匠に学んだ三宅邦松師は昭和平成の刀剣刀装具の大蒐集家としても知られる。国宝重要文化財を数多収蔵し、その研究を自らの作刀に活かしたと云う。本作は景光を映したものか、上品な姿が印象的な作品。

邦松

Kuniyoshi

 石州浜田の住人国義は日向国飫肥の生まれ。同郷の和泉守国貞を頼って大坂に上り、その門下となって修業し、寛永、正保年間には師の代作を任せられる程に腕を上げた隠れた名工である。慶安二年末から三年初め頃に独立して師の許を離れ、石見国浜田に移住、承応二年頃には匠名を国吉と改める。晩年、生国に帰ると伝え、その子二代伴之丞国義は師の嫡子井上真改の弟子となっている。

国義

Masamine

 石川県。人間国宝隅谷正峯先生鍛造の青江逆丁子乱れの優品。地沸微塵について縮緬肌となる地鉄に逆がかる華麗な逆丁子乱刃を焼く。刃縁には純白の小沸が降り積もって真夏の積乱雲を思わせる。「特別展人間国宝隅谷正峯展」所載品

正峯

Masayoshi

 「作陽幕下士源正義」「作陽幕下士細川正義」。備前伝と相州伝を得意とした細川正義は、下野国鹿沼の生れ。初銘は正方。甲冑師の流れを汲むも刀鍛冶を目指し出府。水心子正秀門に学び、復古理論の薫陶を受けて大成し、大慶直胤と共にその実践者として鳴らした。作州津山藩松平家に仕えて江戸で槌を振るい、「作陽幕下士」と添銘の刻された作を遺している。茎を一本鑢で丁寧に仕立て刻印を打つ。安政五年(1858)没。

正義

Moriyoshi

 石見国長浜浦には南北朝期の石州直綱、貞綱の流れを汲む祥末、祥貞、林喜(もりよし)らがあり、良質の鉄を以て作刀に励み、長浜領主周布氏や西国の雄大内氏、後には毛利氏など戦国武将の需に応えていた。

林喜

Naokatsu

 大慶直胤の子で名手の誉高い次郎太郎直勝は嘉永五年から六年水原で有力者の需めに応えており、極上質の鋼と細心の鍛錬によるこれらの作は「水原打」として珍重されている。

直勝

Sadakatsu

 大正時代。大阪府。「月山貞勝謹作」。月山貞一の子。明治二年(A.D.1869)生まれ。伊勢・明 治両神宮の宝剣・陸海軍将校の刀を打つ。家伝の綾杉肌は鍛着面が詰み美しい。

貞勝

Shigeyoshi

 京埋忠家は三条宗近の末裔と伝え、代々洛東の梅忠町に住して禁裏御用を勤め、室町時代は作刀、茎の磨上と象嵌施刻、刀身彫、彫金を以て足利将軍家に仕えた名門。埋忠明寿は鷹ノ峰芸術村を主催した本阿弥光悦とも交流した桃山期の美の巨人の一人で、重義はその門流。

重義

Sukenaga

 祐永は横山覚之介といい、奥元平門の父祐平に就いて鍛冶業を修め、文政十二年十二月に父の跡目を継ぎ、天保四年二月十三日に加賀介を受領。茎に朝臣号、菊紋、一文字を刻するを勅許されている。鎌倉期の備前一文字を想わせる腰反りの強い優美な姿に華麗な丁子乱刃を焼いた遺作はいずれも出来が優れ(注)、誠心誠意の働きが賞されて、藩より帯刀を許され、長舩の大庄屋格に列せられた名士でもあった。本作は大小一腰の小刀。

祐永

Sukesada(Genbei)

 室町期の備前刀工中もっとも興隆した一門に祐定一派がある。中でも源兵衛尉祐定(げんべえのじょうすけさだ)は初代与三左衛門尉祐定に続く次代の名手。天神山城主浦上宗景や三村家親など有力武将の需に応じで多くの優れた作品を鍛えた名工である。小板目鍛えの地鉄は特に入念に鍛えられ、鉄色冴えて、さわやかな秋空を見る如く透き通るような鉄色(かないろ)に吸い込まれる心持がする。