新商品のご案内 短刀 銘 武威泰平 固山宗平作 嘉永七年八月日

短刀 銘 武威泰平 固山宗平作 嘉永七年八月日

下総国-武蔵国 嘉永七年(西暦1854年) 百六十六年前

 固山宗平は江戸後期に切れ味で鳴らした備前介宗次の実兄。

 天保初年頃に兄弟共に出府。長運斎綱俊に師事し、更なる技術の向上を成し遂げた。

 兄宗平は天保七年に古河藩に召し抱えられる。
 
 天保年間に弟宗次が藩主の土井侯と上級藩士の為に名刀を打ったのは、この兄宗平の協力があったことが明らかである。

 この短刀は江戸時代後期に盛行した冠落造。重ね三分二厘(一センチ弱)と頗る厚く、中程から鎬地の肉が削ぎ落され、短寸ながら量感のある刀姿。

 地鉄は地景が入って細やかに肌目起ち、働き豊か。
 
 生ぶ刃が残された刃文は浅い湾れに尖りごころの互の目を配した宗平得意の孫六兼元伝

 茎に刻された「武威泰平」の四文字は激動の時代に身を置いた所持者の決意だろうか。

 年紀の嘉永七年(1854年)という時代は年明け早々一月にロシアのプチャーチンが長崎へ、そして翌二月にアメリカのペリーが浦賀へ来港。その翌三月には日米和親条約が締結されてる。さらに国外へ目を向けると同月に不凍港獲得の野心に燃え南下政策を進めるロシアがクリミア半島でオスマントルコに宣戦している(クリミア戦争)。

領土拡大に燃えた帝国主義の気運に欧米列国が包まれた徳川政権末期の十九世紀。

更なる不凍港の獲得を狙ったロシアと、捕鯨の中継基地を欲したアメリカ。列強の思惑によって新しい時代の扉が否応なく押し開かれる、そんな時代の風を伝えた一口である。

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